天地自然の道を行く
西郷は「道」を天地自然のものと呼び、「人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛する也」と『遺訓』の中で述べている。
地球上の動物は天地自然と一体である。人間のみ自由意志を持ち、文明をつくり科学を発展させ天地自然から独立して存在している。しかし、そう見えるだけで、実際は人間も天地自然から離れて存在することはできない。近年問題となっている地球温暖化、環境破壊による自然災害、飢餓や健康被害は、人類も天地自然の一部と認識せざるを得ない事象となっている。人類はいわば地球という家に住む借家人のようなものである。
私が地球という家の家主であれば、環境を破壊し続け、地球生命にも影響をおよぼしかねない核実験を行うなど言語道断の所業であると人類を地球から追い出すであろう。
二万六千年ごとに地球の地軸が傾くことで生ずる大変動により陸地が海底に水没し、海底が隆起し陸地になる大カタストロフィー(破滅的な大変動)が起こるという説がある。人類文明は産業革命以後わずか二百五十年間で急激に発展し、とどまることを知らず、人口の増加もあいまってますます加速している。二〇〇九年あたかも人類に警告するかのように、未知の新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)が四月ごろメキシコから世界中に広まった。
地球規模の環境問題が叫ばれている。三百年後、五百年後の人類と地球のあり方を思い浮かべるとき、人間と天地自然のかかわりはどうあるべきか、現代において考えておくべきである。
人間以外の動物はすべて天地自然・大宇宙の法則に従って生きている。自由意志を持ちものを創造する力を持つ人間にとって道(人の行うべき正しい道=道義)を行うことが、人間が天地自然・大宇宙の法則に従って生きることであると西郷は考えている。人間は天地自然・大宇宙の一部として存在しているのであり、独立してあるものではない。広大にどこまでも大きく考えると、人の道は天地自然・大宇宙の法則(道)の中にある。
ほかの動物が天地自然と一体であるように、人間が人間として天地自然と一体になるということは、人の道を行うことである。人間は自由意志のみを自由奔放にたくましくするのではなく、一方ではこれをコントロールして人の道を学ばなければならな
い。人間が誰しも持っている我欲(己のための欲望)に克って、この欲をコントロールすることが人の道の基本である。西郷はこれを「己に克つこと」と表現し、人が生きていく上で、人として成長する上で「己に克つこと」がいかに大切で重要か、『遺訓』の中で説いている。
人間は猿人、原人の時代は言語もなく、身に何もまとわず素っ裸の状態であり、ほかの動物と大差なく天地自然と一体だった。一、二歳ごろまでの赤ん坊に似ている。このころの赤ん坊は物欲もなく死の恐怖もない。素っ裸でも恥ずかしいと思わず、何も隠す必要もない。人の顔色をうかがうことなく本能の赴くままで、天地自然であるといってもよい。目先に白刃を突きつけても、何の恐怖もいだかず、かえって白刃に触ろうとするであろう。
しかし、人類が進化し旧人(ネアンデルタール人)や新人(クロマニョン人)の時代になると、人間は言葉を覚え、物を所有し、さまざまな生存に対する欲望と死に対する恐怖を併せ持つようになった。たとえば、幅五十センチの橋があり、高さが一メートルなら、大人も子供も簡単に渡ることができる。しかし、同じ幅であっても高さが三十メートル(十階建てのビルの高さ)になると、落ちると死ぬという恐怖から誰も渡れなくなる。赤ん坊なら死の恐怖をまだ持っていないから渡れるだろう。人類の進化の歴史がそうであったように、人間の赤ん坊もまた成長するに従い、物欲を持ち死の恐怖を覚える。そして、天地自然から離れ「人間」という存在になってしまう。
幕末、志士の間で「赤心」という言葉がはやった。赤子の心という意味である。幕末動乱の時代、明日の命をも期しがたいとき、討幕の志士は、赤子が持つ純粋な心と死をも恐れない心を「赤心」とし、この思いをもって国家に奉じようとした。
西郷の「道は天地自然のものであり、人はこれを行うもの」という考えは、現代においても受け入れられにくい考え方であろう。人間はほかの動物とは全く異なる別の生命体であり、天地自然に対しては独立した存在であると思っている。人類文明の驚
異的な発展がそう思わせたのである。人間のあくなき欲求はとどまるところを知らず今後ますます文明は急激に発展するであろう。しかしながら、急激な文明の発展は人類を滅ぼすことにもなりかねない両刃の剣ともなり得る。
二〇〇九年(平成二十一年)五月、北朝鮮が核実験を行った。何のためにするのか。とどのつまり独裁者の自己満足のためではないのか。人類の歴史をみると権力者の自己満足のための戦争は多い。誰のために、何のためになどつき詰めてみると、結局はさまざまな要因による自己満足のためである。
創造する力と自由意志を持つ人間が天地自然の中で共存するためには、人間にとっての正しい道を行うことである。それは、天地自然と人間が調和して天地自然のバランスを保つことである。西郷はそう考えたのではないだろうか。人間が「天地自然の
道を行う」ことは、人が行うべき正しい道(道義)を行うことと同じである。
人間が物欲をコントロールして人の道を行うことは、天地自然の道と一体になることだとして、西郷は司馬温公(司馬光、北宋の政治家で史家)を例にあげ次のように述べている。「司馬温公曰『我胸中人に向うて云はれざるものなし』と、この處に至っては、天地を証拠といたすどころにてはこれなく、即ち天地と同体なるものなり」。
一箇の人間の想念が司馬温公ほどになると、天地自然に公・私や隠しごとがないように、大自然や宇宙の法則(道)という厳然とした流れと同じようになってくる。「他人に対して言ってはならないことを、思ったり考えたりすることはない」と言い切る
のである。
人間は他人の悪口を言うことは大好きである。他人に対する怒り、不満、恨み、悪口、非難、中傷、悪意は次から次へと心の中に湧き出てくる。これが多くの人々の心の中の状態とも思える。天地自然は彼我の区別がなく、他人にこうした感情を抱かない。人間の持つエゴを少しずつ減らしていけば、自分と他人とを区別することや他人に対して、こうした感情を抱くことが少しずつなくなり、天地自然の意識に近づいていくのである。
エゴの固まりのような人間にとってこれは非常に難しい。しかし、人類が超えようとしなければならないハードルでもある。こうした想念が原因となって、その結果が個人に表れたら人と人との争いになり、国家に表れたら戦争、紛争といった国と国との争いになる。
「天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」という西郷の「敬天愛人」の哲学は、釈迦やキリストや孔子が到達した境地と同様に、天地自然・大宇宙の法則の中に人間のあるべき生き方を見いだしている。西郷がほかの討幕維新の志士と大きく違うのも、そして現在に至ってもなお理解されにくい存在となっているのも、このような考え方からである。