西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p003-第一章_01

道義国家を目指した西郷吉之助

第一章  西郷隆盛

1 外交官 西郷

「私は西郷自身が兵庫へやって来るだろうということを聞いたので、それまでの間、林の案内で上陸して、入浴し、日本式の昼食をとることにした。

浴後、私は木綿のガウン(浴衣)に着換えたが、涼しい感じがして、浴衣の着心地のよいのを初めて知った。私たちが食事の席につくや否や、西郷が到着したとの知らせがあったので、急いで飯をかっこみ、すぐに薩摩人の別の定宿へかけつけた。前から、もしやと疑っていたのだが、西郷は、一八六五年十一月に島津左仲と称して私に紹介された男と同一人物であることがわかった。

そこで、私が偽名のことを言うと、西郷は大笑いした。型のごとく挨拶をかわしたあとも、この人物は甚はなはだ感じが鈍そうで、一向に話をしようとはせず、私もいささか持てあました。

しかし、黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった。

私は、薩摩における外国人の雇用のことや、またある事情、すなわちイギリスの臣民が条約の制限区域外に、または領事館の役人の管轄区域外に居住することによって生ずると思われる紛争について話をはじめた」

これは英国人アーネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』の中でサトウが西郷と会う場面である。サトウは幕末英国公使館の通訳として日本に赴任し、この時期公使オールコックとパークスに仕えている。

サトウは日本語を話すことはもとより候文や漢文の読み書きが出来て通算二十五年日本に在任し、一八九五(明治二十八)年~一九〇〇(明治三十三)年は英国公使の職にあった日本通である。

しばらくは幕末にタイムスリップしてみる。イギリスの青年外交官アーネスト・サトウは、討幕に向かおうとする三十代後半の西郷を映像で見るように表現している。

次は西郷がサトウに会いに行った。

「私は、この日早朝西郷吉之助の訪問をうけた。西郷が私との会談の内容を大久保一蔵に書き送った手紙の英訳したものをここに插入しよう。この手紙の原本は、その後幾年もたってから岩倉侍従(岩倉具視)の書類の中から発見されたもので、私が北京からの帰途東京に立ち寄った一九○六年に、私は旧友松方正義からその原本の写しをもらったのである」

西郷の会談の目的は、幕府が薩長憎さのあまりフランスに兵力や財政の支援を要請し、短絡的に打倒薩長に踏み切り内戦へ発展させないことにある。それにはイギリスを使ってフランスを牽制しなければならなかった。この時期フランス公使ロッシュは幕府支援を表明していた。イギリスとフランスは歴史的にも長い間対立と抗争を繰り返している。幕末には、アジアを侵食した欧米列強による帝国主義の波は極東の日本にまで及んでいる。

薩長は次の二つの事件によって欧米列強の火器の威力を思い知らされた。一つは、一八六三(文久三)年六月の薩英戦争。イギリス東洋艦隊七隻が鹿児島湾に侵入、生麦事件の犯人の処刑と賠償金支払いを求めたが、交渉は進展せず薩摩藩汽船三隻の拿捕と砲撃へと発展し、鹿児島城下の一割を焼亡させた。もう一つは、一八六四(元治元)年七月の四国連合艦隊下関砲撃事件である。イギリス九隻、フランス三隻、オランダ四隻、アメリカ一隻の総計十七隻、兵員五千人の四国連合艦隊が下関を砲撃して陸戦隊が上陸し長州軍を撃破。砲台の破壊や大砲の奪取を徹底して行った。長州藩は休戦交渉を申し入れ、下関海峡通行の保証や賠償金の支払いなどの条件を受け入れ講和が成立した。

下関砲撃事件にしても実際長州藩の砲撃を受けたのはアメリカ、フランス、オランダであり、アメリカ、フランスは軍艦で下関を攻撃し報復をすませていた。それをイギリス公使オールコックが三国に呼びかけて主導し、四国の連合艦隊に編成したのである。

帝国主義のこの時代、当然といえば当然であるが、各国は自国の利害を最優先させている。最も多い隻数を派遣したことから読み取れるように、イギリスは自国の艦船が下関海峡を安全に通行できる保証を確保するため長州藩をたたき、併せて賠償金を取ろうとする意図が明らかである。これまでアジア諸国で行ってきたことを各国の連合で行ったまでである。

西郷はこれらの状況を踏まえて、列強の利害を一致させて日本に当たらせないことを目指すとともに、イギリスという強国を使ってフランスの行動を牽制する方法をとらなければならなかった。現実に、フランス公使ロッシュが将軍慶喜を援護、軍事顧問団の派遣や横須賀製鉄所・横浜仏語伝習所の設立をするなど幕府に肩入れをしていた。

サトウとの会談の趣旨もここにある。西郷は会談の冒頭、「大坂の商社はフランス人と共同して巨利を独占することを計画している」と情報を提供。さらにフランス人が抱く策略を明らかにした。「日本は西洋各国のように単一な統一された政府をつくって、大名たちの権力を除去するようにしなければならぬ、それにはまず何よりも長州と薩摩の二国を打破して、この二国を征服することに協力すべきである」とフランス人がそそのかしているという。これらの事態にイギリスがどのような見解をもっているかサトウから引き出そうとしている。

サトウは次のように答えている。

「フランス人が政府を助けて諸大名を打破しようとしているのは疑いのないところだ、聞くところによると、政府は二、三年内に金を集め、機械を備え、フランス人の力をかりて戦争に訴え、戦端を開く考えであるという、フランス人はその際援助を与えるため軍隊を派遣するであろうから、これに反対する大強国が援助に乗り出さなければあぶないことになる、しかし、その場合イギリスも防禦の軍隊を派遣するという報が広まるならば、フランスの補助部隊は移動が不可能になるだろう、それゆえに、前もって充分な協力態勢をとることが肝要である、イギリスの考えは、まず日本の皇帝が政権を掌握して諸大名をその下に置き、政体(あるいは国体)を万国の制度と等しいものに制定するにある、これが何よりも先決問題である」

さらにサトウは

「討幕側がイギリスに相談や援助を頼むなら自分に知らせてほしい、自分は引き受けるつもりだ」

と加えた。それに対し西郷は「われわれは日本の政治の改革には自ら努力する覚悟であり、外国の人々に相談しては面目ない次第であ
る」

と述べている。

サトウはまた、こう語った。

「フランス人は横浜で利をむさぼり、自分勝手な契約を結んでいる。イギリスは貿易で立っている国なので、貿易を防げるいかなる試みにも絶対に反対であるから、こうした事には極度に憤慨している」と。

以上がサトウとの会談のあらましである。

この時期の西郷は実に忙しく、八面六臂の活躍をしている。薩英戦争は沖永良部島で罪人としてその報を聞く。急ぎ赦免され鹿児島に着くやいなや京にのぼり軍賦役に任ぜられる。しばらくして、一八六四(元治元)年七月に起きた「蛤御門の変」では薩軍を指揮し、会津藩軍と合同して長州軍を破り京から追いはらった。

同月二十三日、長州追討の朝令が出され、幕府は諸藩に出兵を命じ第一次長州出兵となる。征長軍の総督には前尾張藩主徳川慶勝
が就き、西郷は参謀に任ぜられた。

一八六四(元治元年)七月、長州藩は歴史的な大艱難に直面した。兵二千人余を出兵させた「蛤御門の変」では会津藩・薩摩藩の連合軍に破れ長州に敗退。郷国では四国連合艦隊によって下関が砲撃を受けるという、外圧と内圧を同時に受けた。

後世の歴史から見ても、この局面における参謀西郷の処置は見事というほかない。

明治維新を見すえたような手を打っている。

日本は欧米列強に比べ、武器、科学技術、産業どれをとっても脆弱である。幕長戦争が長引けば双方の憎悪が増し、泥沼の内戦に発展しないともかぎらない。そうなると外国の内政干渉を許し、薩長対幕府の争いが列強の代理戦争の様相を呈してくる。

これを避け同時に討幕に備えるため長州藩の勢力は温存しておく処置をとった。

西郷は長州藩と交渉すべく自ら単身広島に行って藩の幹部と会い、蛤御門の変の主導者三家老の切腹をもって第一次幕長戦争を同年十二月二十七日終結させたのである。幕府側では、総督徳川慶勝は「薩摩の芋焼酎に酔わされた」と噂された。

勝海舟が評した「西郷の大局を制する力」とはこういうことを指すのであり、日本のあるべき姿と行く末を見据えた私心のない判断行動である。百五十年後の現代から検証しても正しい処置であり当時西郷にしか成せなかったであろう。江戸城総攻撃の即時中止や勝海舟との談判による無血開城も西郷の日本の未来をにらんだ大局を制する力と言ってよい。

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