日本道義主義の会
新春対談
今年は天下布道の初年とする
奄美大島に魅せられて23年間島々とかかわり続け、15年間島に拠点を置いて暮らした山中さんと奄美大島生まれの早川会長とは言葉以上に心でつながることがありそう。新年に際して道義主義の「道」と「義」について話しが弾みました。
全文掲載
山中順子
1970年神奈川県横浜市生まれ。写真家、映像作家。
133代奄美観光大使。徒根屋株式会社、ブランディングジャパン株式会社代表。2000年から生命と死生観をテーマに奄美群島の島々に暮らす100歳以上の人を撮り続ける。写真集「奄美100歳」「奄美手帖」健康美容食育指導士・料理家として「むね肉365」書籍など多数。地域・個人ブランディング、地方創成に着手した内外面の輝くスタジオカフェ Art Cafe&Bar WITHを経営。
早川幹夫
日本道義主義の会会長。1948年鹿児島県奄美大島生まれ。拓殖大学卒。琉球大学文部事務官に就職。その後沖縄・東京で人材派遣会社を起業し、現在に至る。西郷隆盛の生き方に感銘を受け、混迷する現在の世界の政治と経済に道義主義を唱える。著書に「一箇の大丈夫 西郷吉之助」「道義国家を目指した西郷吉之助」「始末に困る人 西郷吉之助」などがある。
奄美出身の早川会長奄美に魅せられた山中さん

あけましておめでとうございます。新しい年は道義主義の年になります。

新しい年に早川会長とお会いすることができ嬉しく思います。会長は奄美大島出身だということで、昨年お会いしてすぐ言葉を超える何か、血を感じたというか、熱いものを六感で感じました。

私はお話を聞くうちに山中さんは素晴らしい方だと思いました。
私は奄美大島の名瀬で生まれたのですが、小さいころの記憶しかありません。お聞きしたら奄美に住んでいたことがあるそうですね。

私は13歳の頃から、リーダとして生きるなら、やくざになるか、社長になるか、政治家になろうと意味もわからずに決めていました。私は横浜生まれですが、両親・親戚は岡山出身です。戦国武将の山中鹿之助の血を継いでいると意識してきた私は、幼い頃から常に七難八苦を与えたまえという考え方を刷り込まれています。
奄美大島との縁は25歳の時に芸能プロダクションや派遣会社を経営していて、自分では大成功と思い込んでいる時でした。社員の中に奄美大島の人がいて「奄美にはユタという神様みたいな人がいる。僕の母はユタだったけれど、山中さんにとっても宝物になり、島にとっても必要な
人になる。ぜひ島に行ってほしい」と言われました。丁度奄美でロケハンの仕事があり、それがきっかけで2000年に初めて奄美大島に行きました。私は自分の目で見ないと信じないので、だれにも案内されずに歩き始めました。神の子という浜に降りた時、「ここなのよ」という声が
聞こえました。誰の声か……。
でも自然の神々から祝福されたような気がしたのです。「ここなのよ」の意味を探さなければいけない。それで島とかかわりながら生きてきました。
島に恋して島と結婚すると決めたから。

父が公務員だったので奄美に生まれて小学校、中学は長崎で育ちました。27歳の時に沖縄の琉球大学に採用され、10年間働きましたが、それからずっと沖縄に住んでいます。
ユタのことはあまり知りませんでしたが、西郷隆盛の本を書いた時に奄美のユタの話が出てきます。
西郷隆盛は心身を苦しめられ成長して大任を果たす

明治憲法ができた時に奄美大島の島民が東京の勝海舟の家に行って西郷さんの住んでいた家に掲げる碑文をお願いしました。私はその碑文を見て勝海舟は西郷さんのことをよく知っているなと思いました。
「このような人にこのような役目を与える場合、まずその心身を苦しめ、その身を窮乏する。誠なるかなこの言、わが友西郷氏に見る」
と書いてありました。天が西郷隆盛のような人に大任を任せようとすると貧乏にしたり、牢獄に入れたりして苦しめ、その人が耐えられるかどうかテストするのだということですね。

私は島という存在が「何」なのかに触れるために、まず、百歳の方々の生き様、死生観を取材し、生きるとはどういうことか、魂の中にある普遍的な祈りは何だろうと探り島と関わり続け今も変わらず人生のテーマです。
島を深められたのは2009年から奄美手帖という旧暦を軸にした島暦の書籍を自費出版しています。今年で15年目です。今年は奄美の日本復帰70年でもあり、ここに至るまでの歴史を見るとき、西郷さんは必ず出てきますので。西郷さんゆかりの地は奄美群島の宝と言えます。

沖永良部島で西郷隆盛が囲い牢に閉じ込められましたが、私はその中に入って西郷隆盛がどんな気持ちだったのかを感じてきました。

なぜ西郷さんが龍愛子さんに愛可那という名をつけたか。愛しい人につける名前だからと言われましたが、でもその名前を付けるときの西郷さんの人柄と温かさを感じました。島に愛人を作るというタイプの人ではないけれど、その土地で生きるために土地の血を、自分の血を分けあうという大きな愛とか慈悲があったのだと思います。島をとても愛したんでしょうね。
私も島の言葉でいうとフリムンです。フリムンというのは人もゴミも恵みも島の外からやってくるという概念。だから西郷さんも変わりものか恵みの人か、海からやってきたということで島の人も時間をかけて受け入れたのだと思います。

西郷隆盛は奄美で骨をうずめる想いで新居まで作りました。島民の目線で溶け込み、奄美の人として生きたんです。それが皮肉にも召還命令が来たんです。島には鹿児島から来た自分と島民とは違うという人もいたでしょう。しかし西郷さんは溶け込み、分け隔てはしませんでした。
囲い牢の中で座禅を組んでいる西郷隆盛を見て牢役人はこのままだと死んでしまう。これは何とかしなければと島役人の土持政照が自分がお金を出すので座敷牢にしてください奄美出身の早川会長奄美に魅せられた山中さん西郷隆盛は心身を苦しめられ成長して大任を果たすと代官に頼んだのです。
自分を訓練し、自然の中に
神がいることを知る

私は学生時代パチンコに明け暮れ、身体を壊しました。そんな時に教授が西郷隆盛の死生観をチラッと言ったんです。私は死の恐怖におびえていましたから、その言葉に飛びつきました。授業が終わると図書館に行って西郷隆盛の本を読んだんです。こう言う人がいたのか! 奄美に3年もいたということも知り、妙に懐かしくなりました。
西郷隆盛のような人になるためにはどうしたらいいか、どのような勉強、訓練をしたのか。自分も同じようなことをすればそうなるのではないかと、遺訓集は暗記するまで読みました。
今になって考えると、西郷隆盛は西郷隆盛程度の男は誰にでもなれる、俺を祀るな、自分を高めろと言いたかったんだと感じます。西郷隆盛自身も高みを目指して孔子や孟子などの中国の英雄豪傑に近づくために努力しました。
奄美大島から帰ってきたとたん、島津久光の命令に反して勝手な行動をしたので久光が激怒して、徳之島へ流しました。でも徳之島では牢屋に入らず、自由の身だったので、それを知った久光がまた激怒して、さらに遠い沖永良部島へ流しました。
行ったことがありますが、まさに死ねと言わんばかりの牢屋でした。

名瀬の近くに願立の浜という琉球王朝時代の神様が祈りをする海岸があるのですが、そこで島の血が自分の中に入るのか訓練しようと、断食し潮が満ちても腰以上にならないところを選んで3日間海の中に入っていました。
足の裏と感覚で、海をつかみ、常世とつながろう、島の血とつながろうと昼も夜も……。自分が岩なのか、水なのかわからない状態でした。

その経験はもったいないです。
総理大臣になられた方がいいくらいです。自分を訓練するのはなかなかできません。

私は常に生き死にのところで生きてきました。そのたびに超えてきましたので、何か意味があるんだろうと思っています。
私なりの美学、魂と内外面を磨く道を掲げています。見た目だけでなく、内外面を磨くということは自分からも人からも磨かれることです。美しい志を持った道を作っていこうと、ミガクジャパンという活動をしています。心磨き、身体磨き、感性磨きをしています。
武士道ならぬ心技体の美士道です。
道義というのに近い感覚ですね。
道は人が目ざすもの
義は行動を起こすもの

私は道義という言葉は7年~8年前から掲げています。武士道は厄介で凝り固まってしまいます。
宮本武蔵の五輪書にありますが、侍は死を恐れないというが、商人にも死を恐れず行動する人もいる。死ぬことは武士の専売特許じゃないと。
西郷が自ら筆をとった私学校の綱領に「道を同じうし、義相あいかな協うを以って暗に集合せり」と、道という言葉を使っています。道とは人が目指すもの。義はそれを知っているだけで
はだめ、正しいと思ったら生死を賭しても行動に移る。それが道と義が一体化するのだということです。
私が道義に主義という言葉を加えたのは行動を起こすためのエンジンをつけたかったからです。民主主義、共産主義、菜食主義、主義をつけたら動けるんです。だから道義主義なのです。
この世界的に乱世の時代に平和をもたらすのは道義主義しかないと思っています。

山中鹿之助のアイデンティティからすると、言葉は刀です。言そんな政治家が必要道は人が目ざすもの義は行動を起こすもの自分を訓練し、自然の中に神がいることを知る葉という武器でいじめたり、いじめられたり。そこから自分を守るとき刀にもなります。刀は人を殺しもしますが、自分を殺すこともできます。
奄美で自然の中に神があるという概念を学び、落ちている葉も石も命の上に在り、浜辺・汀(なぎさ)も珊瑚の命からできていると解ります。
道義主義を掲げる早川会長にお会いしてやっぱり自分がやってきたことが間違いじゃないと思いました。
奄美の血を持っている早川会長に出会えたことは神の引き合わせと感謝します。

今度衆議院が解散したら政治に打って出ようと思います。日本道義の党。それで選挙管理委員会にとどけてあります。山中さんも世の中を変える力がある人だと思います。

よく順子さんが男だったらなと言われます。時代に逆行しているかもしれませんが、褒め言葉として捉え、私にとってうれしい言葉です。
良いことばっかりだったら、本当に良いことは見えません。人間は悩み、喜びもあります。七難八苦があってより幸せが光るのが人生だと思います。

あえて七難八苦を乗り越えてパワーをつける……。西郷隆盛も同じことを言っています。何もないと人間は成長しません。あえて危機感を持つことですね。
思いをカタチにするために
ブランディングが大事

人類のDNAの一つは危機感を持つことなんです。700~800万年前、地殻の変動でアフリカの森にいた猿が草原に降りざるを得なかった。そこには肉食獣がたくさんいる。だから自然に直立二足歩行で遠くが見られるようになったのです。
もう一つは情報の伝達。二足歩行で立った猿が、遠くにライオンがいることを仲間に伝えたいと思うようになったのです。

今の危機感の話は私の言葉でいうと、細胞の再生です。危機を乗り越えるときに心が成長する。進化です。断食も飢餓状態にすることで細胞が生まれ変わります。
思いをカタチにするのは難しいですね。人のことは見えるけれど自分のことは見えません。日本道義の党は何をもって道義主義を伝えるのか。
メニューが必要です。まずはブランディング。道義主義という志をわかりやすく知らしめるためにどうみせるか。そこが伝わらないと道義という言葉が右寄りにしか見えません。
真ん中なんだとわかってほしいです。

天下布道の初年とする。世界中に道義主義という道を敷く、今年はその初年度にすると思っています。

新しく始まるって最高です。
不動――不動明王。2年前に国東半島に行ったとき、阿弥陀如来・薬師如来・不動明王が鎮座しており「不動だにしない心」を持つことが剣の意味で不動明王なのだと改めて、沁み入りました。
奄美のユタ神(シャーマン)から神事の鏡と勾玉をもらいましたが、剣だけは自分で探しなさ
いと言われていました。剣を持つということは自分の心が不動だにしない。自身の志を信じるこ
と。「自信」を持つとは、信じることなのだと。
これが一番の強みです。日本道義主義の地、そして西郷さんの地、その道を尋ねることで私としては奄美にお返しができますし、日本道義の党が大事にしているものがこういうものだと伝えることができると思っています。

道義主義を広める手段として政治家を輩出します。今まさしく世界的な乱世なのでそこに道義主義という人の道の思想が必要です。自由主義と民主主義だけでは不充分です。

私はそれに倣って、皆様のお心の中にある「自信」、自分を信じるという「愛と優しさと強さを共に分かち合い」、日本人として、女性としても逞しく行動ができるリーダーになる、そのような年にいたします。