第一章 仕末に困る人
権謀術数は使わない
勝海舟は人に「人生の処世術は何か」と問われ、「ただ誠心誠意あるのみ」と答えている。「馬鹿な、誠心誠意などという言葉は現代では死語に等しい」とか「仮に、こちらが誠心誠意であったとしても相手にそれが伝わるか疑間である」とか「そんなことをしたら自分の足元をすくわれて損するばかりだ」という声もあるであろう。
人は皆、自分が幸せで楽しい人生を送れることを第一番に考えている。それは、とりもなおさず自分以外の他人も同様に一番重要であると考えていることでもある。それゆえに各個々人が第一番に大切であるとする部分が、互いにぶつかったり、重なり合ったり、せめぎ合ったりしている現実がある。
そして幸であるとか不幸であるとかいう場合の判断基準は、自分自身であり、自分自身にとって幸なのか不幸なのかだけである。自身に害や損を与えるものは不幸であり、反対に利や得を与えるものは幸と判断される。「幸せになりたい」というのは、多くの場合自分に幸せが来ることであり、他人に幸せが行くことではない。また人は幸せ」がよりいっそう拡大し、なおかつ継続してくれることを切に願っている。
一方人々は国や地方公共団体、あるいは企業会社といった何百万という大小多種多様な組織に属して生活している。その組織の中でも同僚、上司、部下などさまざまな人とのかかわりで生きている。処世術と言えば、世渡り上手という言葉がある。個々人のもつ「幸せになりたい」という欲望が渦巻く人生の荒波を智恵と才覚で乗り切るということである。反対に世渡り下手というのもある。すぐ思い出すのは、赤穂浪士に出てくる浅野内匠頭は世渡り下手であろう。西郷も明治国家に反旗を翻し反乱軍の大将となり、賊軍として敗れたのであるから世渡り下手と言えなくもない。権謀術数とは「巧みに人を欺くはかりごと」と『広辞苑』にある。自分の計画や目的を達成しようとするとき、その障害となるものを権謀術数を用いて取り除こうとする。
ある意味権謀術の数であるから、その例は一口では言えないほど多種多様である。また巧妙かつ高等で結果が何年も表に現れないものさえある。『史記』にはいくつもの例が述べられている。マキァベリや韓非子は一つの学問としてとらえるほどである。
権謀術数とは、とどのつまり、自分を利するために他人を利用活用するためのものである。組織の中に権限と権力とが発生してくると、その組織の大小を問わず権力を得ようとして権謀術数らしきものが現れてくる。政界、財界、大小の派閥、組織のトップの座をめぐる権力闘争は今も昔も変わりなく、普通に繰り返されている。また権力を得るためばかりでなく、個人レベルでも、自分の身を守るためや自己の目的達成の手段として権謀術数は使われている。
しかしながら権謀術数は、自分よリレベルの高い人には使えないという面もある。
織田信長に権謀術数は誰も使えない。すぐ見抜かれ首をはねられるのがおちである。
西郷は権謀術数を用いなかった。また使おうとしなかった。そのときはうまくいったように見えるが、後で綻びが生じてくると言っている。権謀術数というものは、自分の心の内で考えていることは、相手に見えるはずがない、自身もまた相手が心の内で考えていることは見えないという前提の上で成り立っている。お互い相手の考えていることがテレビ画面に映し出されるように百%見えたら、権謀術数はできない。見えないゆえに、人の特性(好き嫌い、長所短所、思考、人生の目的など)を将棋の駒の金・銀・飛車。角に見立てて、自己を利するために駒を動かすように人を動かすのである。生死損得を度外においた人には権謀術数は通じないであろう。もちろん仕末に困る人には権謀術数は通用しない。通用しないから仕末に困るのである。