第一章 仕末に困る人
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るもの也」とは西郷の言葉である。
一体西郷はこの言葉をどういう考えで、どういう思いで発したのであろうか。この言葉は、西郷の中でもとりわけ有名であったため、言葉の受け取り方は、受け取る人のレベル(力量)によってさまざまであった。戦前はテロリストや右翼に信奉されたともいう。「命もいらず」とはどういうことであろうか。命は人間にとって一番大切なものである。現在ただ今生きている存在そのものである。命もいらないということは自己の存在を一切の無にすることで、人間が一番怖れかつやりたくないことである。
西郷は、月照との入水自殺で自分独り生を得たこと、沖永良部島で野ざらしの囲い牢で死ぬところであったのを土持政照の尽力で再び生を得たこと。これらのことから、人間の生とはどういうもので、死とはどういうものであろうか、そして生きるとは何か、さらに人間の生きる目的とは何かなど、人間の生と死について牢舎の中で考えに考え、思いに思い真剣に思索を繰り返した。
命は人間が一番失いたくないものであり、また一番失うのを怖れるものである。西郷は三度、自分の意志とは全く関係なく生を得た。果たして誰がこの命を与えたり失わせたりしているのであろうか。三度生を得たことは偶然であったのであろうか。斉彬の突然の死と月照の死、孔子、孟子、朱子といった聖賢は人間の生と死をどのようにとらえていたのであろうか。人は一分一秒でも長く生きたい。この「生きたい、生を惜しむ」ということがとりもなおさず人間にとって最大の欲ではないかと西郷は思った。一番失うことを怖れるものであれば、一番維持したい欲となるわけである。
名(名誉や名望)と官位や金は人間だれしも求めるものであるので欲であるということはわかる。しかし、命と引き換えにできるほどの欲ではない。西郷は「命」というものを人間が求める最大の欲であると言っている。命という欲を名や官位や金と同様の人間の欲ととらえ、その中で最大なものを命とした。それさえも欲しないということである。命が惜しい、一分一秒でも長生きしたいという人間の生存に直結する最大の欲望をなんとかコントロールすることはできないだろうか。人間がこの欲をコントロールできなければ、弱肉強食の動物となんら変わらないのではないのだろうか。
郡方書役として農政の職場で見た藩の圧政にあえぐ農民、奄美大島で見た苛酷なまでの島民からの搾取。顔形は人間であっても、動物の弱肉強食と同じことをしているのではないだろうか。人類は有史以来国の興亡を繰り返し、二〇〇八年の現在でも戦争は起こっている。西郷は欲を少なくするという言葉をよく使っている。人間の最大の欲である生存の欲を少しばかり少なくすることが人間と人間の関係をよくする方法だと言っている。
なにもこれは生きる活力を少なくせよと言っているのではない。腹一杯食べるのではなく、腹七、八分にして、少しは欲を抑えよと言っているのである。
そして「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るもの也、この仕末に困る人ならでは、困難をともにして国家の大業はなし得られぬもの也」と西郷は言う。国家の命運を左右するほどの大事業を行う場合は、何百万人、何千万人という国民の生活や生命を左右することなのである。それをなす者、たとえば政治家は一番の欲である命をいらぬというほどの覚悟でやるべきであり、その覚悟がなければやってはいけない。またその覚悟を持った人たちで行うものでなければ、成し遂げられるものではないと西郷は言っている。
果たして日本にこれだけの覚悟をもって政治をしている政治家がいるであろうか。
大臣病や派閥のための政治、政党のための政治など、自分自身の都合が大分あるのではないだろうか。