西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p027-第三章_04

仕末に困る人西郷吉之助

第三章 聖賢への道

誰でもキリスト・釈迦・孔子になれる

世界の三大聖人といえば、キリスト・釈迦・孔子である。三人の中で一番人間らしいのは孔子である。次は釈迦で、キリストになると人間らしくなくなってくる。孔子は人間そのものであるから、一番まねをしやすく近づきやすい。釈迦は実際、人間であるが、仏となり人間からはるか離れた雲の上に行ってしまった。キリストは神となり、実態が分からなくなった。
キリストが釈迦の年齢八十まで長生きしたら神となっていたであろうか。キリスト・釈迦(神や仏)の人類。人間における存在意義は何なのであろうか。キリストや釈迦の人間として生きる目的は何であったろうか。ともに二千年以上前の人間であり、現在に神仏として存在することを意図していたであろうか。キリストや釈迦の真の思いが現代に正確に伝わったであろうか。

人間は自己の能力のレベルでしか教えることはできない。キリストや釈迦の弟子たちがその本当に教えるべきことを伝えきれたであろうか。弟子のレベルで解釈したことが現代までの二千年もの間伝わってはいないだろうか。なまけ者で面倒くさがりで、わがままで横着な人間が、キリストや釈迦の教えを検証することもなく、鵜呑みにしてはいなかっただろうか。

人類の歴史を見ると、神の名のもとに戦争や殺数を繰り返してきた。それは二〇〇八年の現代でも続いている。人類の歴史の中でどれほどの人間が神の名のもとの争いで犠牲になったであろうか。ひょっとすると神の名のもとに核戦争が起こり、人類が滅亡するかもしれない。今の世界情勢を見ていると可能性が全くないとはいえない。
二千年以上前の人類にキリストや釈迦が教えたのと同じ方法で、インターネットや携帯電話を駆使する二十一世紀の人類に教えてよいものであろうか。人類が四、五歳の園児であった二千年前であれば、幼稚園の先生が理解しやすいように例えを多く用いてわかりやすく説明したであろう。人類が二千年を経て大学生になっているとしたら大学生用の教え方に切り替え、教える方も大学生を教える力量がなければならない。
人類はいまだに幼い園児のままであり、特別な教師が必要なのであろうか。それとも進学し大学生となり自立して目覚め、もう特別な教師は必要としなくなっているのであろうか。人類の行く末を考えるとき、この見極めは大切である。
多くの人は、西郷や吉田松陰のように哲学、世界観や宇宙観を自分自身の手でつくろうとはしない。大変だからである。既製服を買うように、すでにつくられている哲学や世界観や宇宙観や宗教を自分の好みや他人の勧めで安易に手に入れてしまう。西郷に言わせたら、戦いに臨んで逃げるよりなお卑怯なことであろう。

松陰も「経書を読むの第一義は、聖賢に阿ねらぬこと要なり。若し少しにても阿ねる所あれば、道明かならず、学ぶとも益なくして害あり」と説いている。孔子の『論語』や孟子の『孟子』を読むにあたって一番重要なことは、聖人や賢人である孔子や孟子に追従しないことである。もし少しでも追従する気持ちがあれば、せっかく道を求めようとしても自分を見失い、道は明らかにならず、それではかえって道を求めようと学問をしても益にはならず害になるだけである。
松陰が言いたいことは、たとえ聖人の教えであっても盲従してはならないということである。聖人の教えは自分自身の道を探求するための教科書としては良いが、それはあくまでも自分自身を磨き向上発展させるための道具として活用すべきものであり、自身で努力するという行為を捨て盲従すべきではない。面倒なようであるが、自分自身でもがき苦しみ得たものが自分のものとなるのである。

実際に、キリスト教の新約聖書を読んでキリストの行為の善しあしを、仏教の経典
を読んで釈迦の行為の善しあしを彼ら聖人に阿ねることなく指摘することができるであろうか。二千年以上前のキリストや釈迦が生きた当時も、何々神という神や何々教という教義もあった。その当時の人類が聖人と崇める人もいたかもしれない。しかしキリストや釈迦は当時の神や教義に阿ねることなく、満足せずに批判し指摘し、自ら修業して独自の道を探求したのではなかったか。いずれも若いとき家族を捨て自らの道を求めて修業の旅に出た。

孔子も同様である。この行動が原形であり、後にキリスト教や仏教となった行動の出発点である。現代のキリスト教や仏教やその他の宗教、諸々の教えというものに対し、キリストや釈迦がとった原形の行動をとることこそ、キリストや釈迦の教えに報いることであり、人類の新たな進化に繋がるのではないだろうか。師の喜びは弟子が師を乗り越えることであるという。
「満街の人、皆これ聖人なり」。人間は誰でも聖人になれる。その可能性においては平等である。たとえになっているかどうかは分からないが、誰でも弁護士になれる、後は司法試験に合格するか否かである。キリスト・釈迦・孔子もそのぐらいの位置であると思うぐらいが良い。人間や人智をはるかに超えた存在にしてしまうと、距離がありすぎるためかえって人間が萎縮し、なまけものになり人類に不幸をもたらす。神や仏も少し手を伸ばせば届く高さにいた方が人類という動物のためである。
私もそうであるが、宗教というものはなくても結構生きていけるものである。親子三代宗教なしで生きている。しかし、人として人の生きる道を求める必要はある。これは人間が人として生きる宿命ともいえる。

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