西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p034-第三章_11

仕末に困る人西郷吉之助

第三章 聖賢への道

最後の一ドル

最後の一ドルという言葉がある。それは「自分が持っている最後の一ドルを自分以上に必要としている人が現れたとき、差し出すことができる人」ということである。
これは人間が目指す到達点の最高のものの一つであると思う。この行為は一万人に一人もできないであろう。
母親がわが子を生かすためであったらできるかもしれない。しかし、他人であれば非常に難しいことである。西郷は「天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」と言っている。我を愛する心を以て愛することであるから、この言葉もつきつめると最後の一ドルになってしまう。この行動ができる人は誰が何と言おうと偉い。尊敬できる。自己を犠牲にして他を生かす。他を生かすということがすなわち自分自身が生きることになるのだ、という論理があるのであろうか。人間は人類を進化させるために、自己犠牲をいとわない。

そんなDNAが人間には組み込まれているのであろうか。
鹿児島南九州市(旧知覧町)の「知覧特攻平和会館」に行ったことがある。昭和三十年の三月から八月まで、十七歳から二十四歳ぐらいの若者千三百人余りが国家の危急を救おうと、三百五十キロ爆弾をつけ片道だけの燃料で特別攻撃隊として沖縄へ向けて飛び立った。彼らの遺書や手紙を読むと、たちまち涙があふれ出てくる。両親のために、兄弟のために、日本に残された人のために、日本の未来のために、当時の風潮があったとはいえ、志願して己の命にかえて他を生かそうとする。これも自己犠牲の一つの華である。

たとえば災害に遭って一人しか生き残れないとしたら、老人が自分は十分人生を生きたということで、若者や子供の代わりに自分が犠牲となり助ける場合もあるだろう。
歴史上の人間であろうとなかろうと、純正な自己犠牲は数多くあるであろう。しかし、大半の人は自分が生きていくのに精一杯で、他人のことなどかまっておれないというのが実際であると思う。西郷が月照と入水自殺したことも、一種の自己犠牲でもあった。西郷は近衛家から託された月照を庇護することができなかった。月照の薩摩藩からの追放は死をも意味していた。月照独りで不安な他国へ行かせることはできない。僧である月照が自殺とは考えにくいが、西郷が自分の責任でもあり自身がお伴をするということで、月照の不安を少しでも和らげようと月照に命を捧げる覚悟をしたのではないだろうか。

一八七四年(明治七年)十一月十六日、月照十七回忌によんだ漢詩がある。
月照和尚の忌日に賦す
相約して淵に投ずる後先無し
豊図らむや波上再生の縁
頭を回らせば十有余年の夢
空しく幽明を隔てて墓前に哭す
(前もって約束しておいて相抱いて深い海に身を投げたのは全く同時で、少しの後先もなかったのに、同じ波の上で一緒に救い上げられながら、君は遂に生き返らず、自分だけが息を吹きかえしたことは、思いがけない不思議な浮世の縁である。ふりかってその当時を思い出して見ると、はや十何年の音の夢で、今は空しく生死の境を隔てて君の墓の前にぬかづきやるせない悲しみの涙に沈む次第である)

このときから三年後には、西郷も死ぬことになる。生とは一体なんであり、死とは一体なんであり、人生とは一体何であろうか。そして人間は何を目的として生きたらよいのであろうか。連綿と続く人間の生と死。西郷の言う「天意をよく知る」とは、どういうことであろうか。
民族、国家、一族、家族、親や子のため、大切な人のため、自己の信念や正義のために人間は己の命を犠牲にする。
現代の日本でも、政治家、弁護士、医師など先生、先生と呼ばれ評価されている人も多いが、人間評価のレベルをもっと高いところにおくべきではないだろうか。西郷的松陰的人間が出て来たら非常に嬉しい。会うと涙が出るかもしれない。

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