西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p041-第四章_04

仕末に困る人西郷吉之助

第四章 廃藩置県

廃藩置県

一八七一年(明治四年)六月、西郷は木戸とともに参議となる。これにより代表参議となった西郷を中心に廃藩置県の準備が進められた。同年七月九日木戸孝允の屋敷で西郷、木戸、大久保、井上馨、山県有朋、西郷従道(西郷の弟)、大山巌が出席した秘密会議が行われ、そこで廃藩置県の断行が決定された。七月十四日に東京にいた知藩事五十六人が宮中に呼び出され、廃藩置県の詔書が下された。
これにより三百六十一藩は廃止され、全国に三府三百三県が置かれた。知藩事は免職となり各県(旧藩)には新政府から県令(地方官)が派遣され、地方行政にあたることになった。廃藩置県は各藩の知藩事にとって寝耳に水であったが、新政府の首脳たちが心配したような騒動や反乱は起こらず非常にスムーズに進んだ。

「第二の維新」とも呼ばれる廃藩置県を成功させた新政府は、さっそく政治組織を改変し、太政官を正院・左院・右院とし、その下に省庁を置いて中央集権体制を完成させた。成立して三、四カ月後の一八七一年(明治四年)十一月七日には岩倉・大久保・木戸ら一行遣欧米使節が横浜を出発した。
それから一年八カ月後に帰って来たら直ちに征韓論争に突入するのである。後世の人間である私の日でみるとい大久保は人のよい西郷を利用している。西郷自身も度量が大きいから利用されると分かっていながらも、日本がよくなることであれば大いに利用されようと思っていたであろう。しかし、西郷も生身の人間であるから、征韓論争で下野させられてからは、日本を大久保流の政治手法に任せてよいものかと少なからず思ったであろう。帰国後の大久保の行動を見ていると、留守政府の西郷や江藤、板垣、副島といったいわば西郷派に、政府内に権力基盤をつくらせてはならないという考えからの行動である。

廃藩置県後の政府の組織改変で、大久保は自ら全国の徴税権と財政を掌握する大蔵省の長となり、廃止された民部省の機能・権限までも大蔵省に組み入れ、中央集権化された地方官の任免権を大蔵省に持たせて自己の立つ基盤を強大にした。洋行に際しては、その基盤を堅守させるため右腕ともいえる井上馨を大蔵大輔(次官)とし、後顧の憂いをなくした。しかしながら、帰国してみると井上は司法卿江藤新平に汚職事件でたたかれ、大久保がせっかくつくった権力基盤が弱体化していた。

征韓論は緊急の案件ではなかったはずであり、西郷らと是々非々を話し合い、大久保の力をもってすれば解決できない問題ではなかったはずである。しかし、大久保は自己の政権構想の後退と権力基盤の低下を恐れ慌てて感情的になり、西郷を政権から追い落とすことを決意した。西郷の性格も計算し、自ら参議となり征韓論争に臨んだ。結果は大久保の勝利である。西郷の言う「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を扶みては済まぬものなり…真に賢人と認める以上は、直に我が職を譲るほどならでは叶はぬものぞ…」は、大政治家大久保利通をもってしても難しいことである。

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