道義の意味は広辞苑に「人の行う正しい道。道徳の道筋」と記されている。一般的に「道義的責任がある」とか、道義心に暑い」などと使用されている。
ただし、「人の行うべき正しい道」とは何か、どのような行為を行うべきかなど、その一つひとつを具体例のように何百と表示しているわけではない。何が人として漠然とした判断基準である。このため、「判決は無罪であったが道義的責任は免れまい」などと評されたりもする。
しかし、日本ではこの言葉があるため、人の行為をおぼろげながら照らし出す規範となっているが、これに類する言葉自体が存在しなければ、「人の行うべき正しい道」とは何かさえ全く理解できなくなってしまう。日本語の「道義」という言葉の持つ意味が「人の行うべき正しい道」とするなら、世界各地で人種、民族に関係なく人間であれば誰しも「道義」を模範として受け入れることになるはずである。
ここで考えなければならないのは、「道義」が人間の子として生まれたら本能として備わっているか、それとも後天的に学び知ることが身につくかという点である。