第一章 仕末に困る人
二度島流しにあった
西郷は二度島に流された。一度目は一八五九年(安政六年) 一月、現在の鹿児島県大島郡竜郷町である。奄美本島といわれ奄美諸島の中で一番大きく現在の奄美市があるところである。ハ〇九年(慶長十四年)年二一月までは、奄美諸島(奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島)は琉球王国の領国であった。ハ〇九年徳川家康の許可を得た薩摩島津氏は三千の軍兵を送り奄美五島の割譲を目的に侵攻した。琉球王尚寧王は降伏し、奄美諸島は薩摩藩の版図になったのである。
奄美五島は、薩摩藩が武力により琉球王国から奪ったものである。奄美五島の面積は千二百三十一平方キロメートルでほぼ沖縄本島の面積に相当する。琉球王国三山対立の時代、十二五九年ごろから沖永良部島・与論島・徳之島が琉球北山王朝に支配されるようになった。琉球王国が統一され中山王朝になった一四四一年ごろには大島が、一四六六年ごろには喜界島が支配され、以降奄美諸島は琉球王国中山王朝の版図に組み込まれていた。奄美五島は明治政府の廃藩置県で鹿児島県となって現在に至っている。
しかしながら、くしくも日本が太平洋戦争によリアメリカに負けたことで、一九四五年(昭和二十年)八月十五日から一九五三年(昭和二十八年)十二月二十五日までの八年間、米軍の施政権下にあり南西諸島群島政府という沖縄県と同じ行政府のもとにあった。
十九〇九年から一九四五年八月十五日までは鹿児島県であったが、一九四五年八月から八年間は沖縄県だったのである。当時の奄美の人々にとっては鹿児島が外国であった。奄美では多くの人が沖縄に仕事を求めて行った。私の父が沖縄に行き、琉球税関に勤務したのもこの理由による。
奄美諸島は、気候、文化、風土、言語といい沖縄とほぼ同様である。私の父は一九五一年(昭和二十六年)ごろ、琉球税関の創設にかかわり首里にいたが、「捜査で糸満に行ったときも全く言葉には不自由しなかった」と言っていた。現在でも沖縄と奄美方言は似ている。鹿児島の市街地、薩摩半島や大隈半島に住む、いわゆる鹿児島の人にとって離島といえば、概念の中では種子島、屋久島までであった。奄美諸島は鹿児島から海上三百八十八キロの距離にあるため、さらに離れた島であり、概念として鹿児島に入ることはなく異国風な別の島、奄美という捉え方が、三、四十年前まではなされていた。
西郷が奄美の竜郷に着いた一八五九年当時そこは全くの異国であり、島民の服装をはじめ目に映るものすべて、話す言葉のすべてが、初めて体験することであり異風に感じた。竜郷に着いた当初、島の住人は警戒してなかなか西郷に近づこうとしなかった。西郷もまた異風な風習になじめず、鹿児島の同志に不平不満を書き送っている。
月日がたつにつれ、西郷の篤実な性格、丁寧な言葉遣い、信義ある行動など人柄に触れるにつれ、互いに心を開きあうようになった。
また、村人の子弟に読み書きを教えたり、狩りや漁を村人とともに楽しんだりして、島民の中に深く入り込んでいった。月日がたち、竜郷の有力者である竜佐民の取りはからいで、 一族の娘を妻に迎えることになった。西郷はもうこの島に永住しようと思った。そして二人の間に第一子菊次郎が誕生した。
この間、西郷のもとには藩内の同志の活動や幕府、朝廷の動向情勢は同志から伝えられていた。安政の大獄を実行した井伊直弼が一八六〇年(万延元年)年二月二日、江戸城桜田門外で水戸浪士と薩摩藩士により暗殺されたと同志からの書面で知った西郷は、思わず奇声を上げ刀を抜き庭におどりでて、庭にあった桜 の立ち木の幹に切りつけたという。 竜郷に来て三年が過ぎようとしているとき、突然薩摩藩庁から鹿児島召還の命令書が届いた。西郷はそれを承知し、帰る準備のためしばしの期間をもらった。妻子を竜郷に残し、奄美大島に三年間いたということで大島三右衛門と変名し鹿児島に戻った。 一八六二年(文久二年)二月のことである。

この時期薩摩藩では、実質的な藩主である島津久光が斉彬の意志を継ぎ幕政に改革を追るべく、まさに一千人余りの兵を率いて上京の準備の最中であった。一方、京・大阪では兵を率いて久光が上京するとのうわさが立ち、尊皇攘夷、討幕の志士浪士は久光の兵に乗じ討幕の兵を挙げるなどと殺気立ち騒然とした状況であった。また、薩摩藩内においても有馬新七ら過激派分子が脱藩突出の危険をはらみ、まさに藩内外において一触即発の情勢であった。これらの局面を打開できるのは、先君斉彬の秘書官として活動し京阪の地の志士浪士に絶大な信頼を得ている西郷以外にはないと、大久保ら首脳が嫌がる久光を説き伏せ、奄美大島召還を承諾させたのである。
西郷は鹿児島に帰りつくと、面会を許され直ちに久光に会った。西郷は久光と対面して、上京出兵は状況判断が甘く、準備不足で時期尚早であると強く直言し公武合体計画の見直しを求めた。久光はせっかくの計画に水をさされ、腹立たしい思いであった。西郷を退席させ、計画は続行とし、西郷には上洛途中の下関での待機を命じた。
西郷は下関に着き京阪の地の情勢を収集していると、過激派志士浪士による挙兵暴発の企てがあるとの知らせを受けた。西郷は直ちに暴発を止めるべく京へ向かった。
下関での待機の命令を無視した行動を知った久光は激怒、西郷の捕縛命令を出し鹿児島に送還させた。なお久光の怒りはとけず、徳之島遠島の命が下った。文久二年(一八六二年)六月である。さらにニカ月後、徳之島遠島命令書を見た久光は、これでは西郷の処分は甘いと思い、命令書に「囲い牢入り」と書き加え徳之島より遠い沖永良部島への遠島を命じた(一八六二年八月)。
これが西郷の三度目の島流しである。三度目は罪人としてである。一度目は表向き奄美大島潜居の命令であり罪人ではない。わずかばかりの手当が支給されていたが、帰還する保証はないのであるから、実態としては島流しに似たものであった。島津久光といえば、当時の薩摩藩においては絶対権力者である。普通であればやっとの思いで鹿児島に帰してもらい、職にまで復してもらえたのであるから、大久保ら同志の行為を無にしないよう、事を荒立てたくとも我慢をするはずである。そこが西郷のおもしろいところであるが、どんな権力者であろうと、どんな尊貴な者であろうと、自ら正しいと信ずることにおいては、何者も恐れず、一身を顧みず行動する。なんで、わざわざそういうことをするのか、江戸時代の封建社会では命がいくつあっても足らないぞ、と多くの人は思うであろう。