第一章 仕末に困る人
求道者
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困る人也」と西郷は言ったが、西郷自身も仕末に困る人を目指し、そして仕末に困る人でもあった。求道者としてよく名前が出るのは宮本武蔵である。武蔵の書いた『五輪書』『兵法三十五ヶ条』『独行道』を見ると、よく一人の人間がここまでやれるのかと凄まじさを感じ、その徹底した行動にあこがれる。武蔵が死の七日前に記した自戒の書である『独行道十九ヶ条』は次のとおりである。
一、世々の道に背くことなし
二、よろず依倍の心なし
三、身に楽をたくまず
四、一生のあいだ欲心なし
五、われ事において後悔せず
六、善悪につき他を妬まず
七、いずれの道にも別れを悲しまず
八、自他ともに恨みかこつ心なし
九、われに恋慕の思いなし
十、物事に数奇好みなし
十一、居宅に望みなし
十二、身一つに美食を好まず
十三、わが身にとり物を忌むことなし
十四、古き道具を所持せず
十五、兵具は格別、余の道具は嗜まず
十六、道に当たりて死を厭わず
十七、老後の財宝所領に心なし
十八、神仏を尊み神仏を頼まず
十九、心つねに兵法の道を離れず
必ず勝負に勝って生き残るためには、あえて生きるという欲に付随するものを逆に少なくするかなくせと、これらの文は言っているように思える。武蔵は六十余りの真剣の戦いで勝ち続けた。生死を分ける真剣勝負で勝って生を得るためには、普段から生きるという生存欲がわがまま勝手にならないように死を常に身近に置いてコントロールし、生に執着せずいつでも生を手放せるようにしておくことだと言っている。
武蔵の独行道を現代の若者が見ると、うまい物は食わない、家は住めさえすれば良い、いい家には住みたくない、スポーツ。レジャーといった遊びや楽しみは持たない、そのうえ恋愛や彼女も必要としないことになる。となると阿呆か馬鹿か全くの変人奇人に思えるだろう。その武蔵の生き方が吉川英治の小説として多くの人に読まれるようになり、武蔵を題材とした文芸評論も数多く出ている。戦前は戦艦の名称に武蔵があったり、また二〇〇三年にはNHK大河ドラマで『武蔵〜MUSASHI〜』が放映されたりした。このように日本人の心の中にあって、宮本武蔵は不敗ということや強さということの代名詞となっている。『五輪書』は名著といわれ、影響を受けた読者は多い。
武蔵は刀という道具を通して自分のこと、世間のこと、自分以外の人間のこと、天地自然や宇宙の理を極めようとしていた。同様に西郷も人間がどこまで人としての高みに至ることができるものかという聖賢の道を極めようとした。
西郷は政治家であれば政治家の役目として、武将であれば武将の役目として、無役であれば無役の立場で、自分が現在いる位置で聖賢の道を歩もうとした。西郷は現代の若者にこう言うであろう。「フリーターであろうと、アルバイトであろうと問題ではない。大きな志を持って目前の仕事、与えられたものに不平不満を言わず、周りの人がびっくりするほど一所懸命やることだ。志のない人はなおさら日前の仕事を一心不乱に成し遂げることである。そうすれば志や目標もおのずと現れてくる」と。
私は若者が志を持ち強くたくましくあってほしいと思う。新しい時代をつくっていくのは常に若者である。人材を得るか否かでその国の興亡が決まるとも言われている。
若者が多種多様な志を持ち、それを社会に具現化する。若者が自由闊達にして元気があり強くたくましければ、国が元気になり未来が明るくなる。人間は生まれてしまった以上、生きていくしかない。死ぬことだけがはっきりとしているのである。自分が生きたいように生きるのであろうが、一人ひとりがそれぞれ生きたい道の求道者になることもおもしろいと思う。西郷は自己をして一箇の大丈夫たらしめようとした。