西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p038-第四章_01

仕末に困る人西郷吉之助

第四章 廃藩置県

維新後の西郷

一八六八年(明治元年)四月四日、西郷は勅使橋本実梁を奉じて江戸城にのぼり、徳川本家十六代を継いだ家達より開城引き渡しを受けた。五月十五日上野彰義隊の討伐、八月から北陸出征、九月十四日米沢藩、九月二十四日会津藩、九月二十六日荘内藩が降伏した。西郷は十一月鹿児島に帰る。一八六九年(明治二年) 一月伊地知正治の大久保あて手紙に「西郷入道先生も既に四五十日、日当山湯治、犬四五匹、壮士四人同道の由」とある。
このころ西郷は頭をまるめて、坊主となっていた。一八六九年(明治二年)五月一日、函館五稜郭討伐のため応援兵士を引いて鹿児島出発、二十五日に函館到着。すでに十八日に榎本武揚らは投降していたため、六月十五日帰国する。これにより一年半に及ぶ戊辰戦争は終結したのである。

一八七〇年(明治三年)二月、山口における奇兵隊反乱事件の形勢監察に出張する。
東北諸藩が降伏したことで完全に討幕は終了したので自分の役目を果たしたと思い郷里に帰り、政界から身を引く決意で頭をまるめたのであろう。西郷は権力闘争がいやであり、権力闘争をする気はなかった。

鳥羽・伏見の戦いのときから、すでに薩長の主導権争いがあった。それに加え後発の土佐藩と佐賀藩は討幕後の新政権内での勢力拡張を狙って、薩長との権力争いを演じていた。新政府発足後もこの様態は変わらず、かえって権力闘争は激化し、権謀術数が渦巻いていた。一八七〇年(明治三年)七月二十七日には、旧薩摩藩士・横山安武(初代文部大臣森有礼の実兄)が、新政府の腐敗を批判して割腹し諌死するという事件があった。また、このころ政府の高官が利権と蓄財に走っているさまを見て、「義のための戦であったはずの戊辰戦争が、これでは利のための戦いとなってしまっている。戦死者に対し申し訳ないことである」と、しきりに涙を流したと『遺訓』にある。このような政府には西郷はいたくなかったであろう。

仮にいたら、西郷のような純正な人間は義憤を感じ第二の維新でも起こしかねなかったであろう。それよりは、上野の銅像にあるような姿で犬を連れ、奄美大島で習った狩りをし、温泉につかって世騒を忘れることを好んだのであろう。これは見方によれば西郷の欠点であり弱点でもある。
本当に西郷が目指す道義国家を建設したければ、権力闘争は望むところであるとし、その戦いに勝ち抜き絶対の権力基盤を確立した上でなければ自己の理想とする国家など成立させ得るものではない。尭・舜のような権力の禅譲など欲望渦巻く権力闘争の中ではありようがない。西郷はそういった意味では、維新後は中途半端であったと言われても仕方がないであろう。

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