第六章 這韓使節論
大久保の野望
西郷は大蔵大輔(次官)井上馨を「三井の番頭さん」と名付けた。政府の財政をあずかる高官でありながら、政商三井にあまりにも肩入れする様をこう呼んだのであろう。西郷は『遺訓』の中で「何程国家に勲労有共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一なり。官は其人を選びて之を授け、功ある者には俸禄を以て賞する」と言っている。幕末維新で長州の井上がいかに功績があったとしても、汚職体質の人間を政府の高官にしてはならない。与えられた権限を国家国民のための権限としてではなく私の権限として行使するからである。大久保はその井上を自らの右腕とし大蔵省を任せた。大久保の行動原理、政治目的は一体何であろうか。
大久保は、明治国家の創業期に富国強兵・殖産興業という二枚看板を掲げ、これを強力に推し進めて日本の近代化の礎を築いた大政治家と評されている。中央集権化によって出来た行政機関である一つの省に機能と権限を集中させ、自らその長となり全国に及ぶ組織を動かすことが効果的と考えたのである。
日本が江戸幕府の鎖国政策により、科学技術や産業で欧米に大きく遅れたのは紛れもない事実である。それに追いつき追い越すためには、富国強兵・殖産興業すべきであることは第一に考えられることである。島津斉彬はそれを鹿児島で実施していた。
西郷であっても木戸であっても海舟であっても多くの人が考え至ることである。
何のために欧米に追いつかなければならないのか。追いついた後はどうするのか。
欧米に侵食されたくないという恐怖心や馬鹿にされたくないという思いだけで、進んだ科学技術や産業を模倣し取り入れてよいものなのか。そこには、欧米を善なるもの、絶対なるものとする心を日本人の中に少なからず芽生えさせる。背が高く鼻が高いという外見の欧米人に対し、いわば表面的ともいえる科学技術や産業のみを重視すれば、ただでさえ外見で劣っているかのように思っている日本人に、内面でも劣っているかのような錯覚を植えつけてしまう。日本が追いつこうとしたら、欧米はさらに進んでいるかもしれない。それでは日本は常に欧米に追いつけ追い越せの脅迫観念にとらわれた政策をとってしまうことになる。
一八七一年(明治四年)十一月岩倉。大久保・木戸ら当時の政府高官が大挙欧米に外遊し、あたかも宇宙船に乗せられて文明の進んだ異星人に会ったかのごとく、欧米の外見の発展にショツクを受け帰国した。その後明治から現在まで政治の大きな流れは、彼らのそのショックがトラウマとなり、日本は常に欧米を意識し脅威と羨望とをもって外交と内政を行ってきた。
大久保に話を戻そう。西郷に言わせたら、日本は欧米に遅れているのは事実であるから、富国強兵、殖産興業は当然のことであり、それも急がなければならない。日本は国を開き、西郷の言葉では「万国対峙」することになった。世界の国々の中で日本はどういう国になるべきであり、どういう国にすべきかという国の方針をつくり決定することが、まず第一になすべきことであると言うであろう。戊辰戦争を経て新しい国家ができたのである。「国づくりの手順を誤ってはならない」と西郷は忠告している。
そこに各自の思惑を入れてはならない。
大久保は蓄財をしたり汚職したり私財に走るという体質ではなく、私の欲は全くなかったが、権力を得てそれを行使するという自己の能力を自負する権力欲は強く持っていた。その根底には、西郷より上になりたい、西郷のできないことをなす、といった若いときからのライバル心があったであろう。維新後の西郷の政権欲のなさを見たとき、大久保は今こそ自分の出番であり、自分がなすべきときであると考えたであろう。
そのための権力行使の基盤が廃藩置県後の大蔵省であり、西郷らが征韓論争で敗れ下野した後に設置された一大強大組織の内務省である。大久保は汚職事件で、自らの大蔵省の幹部が警察権を持つ司法省に追及されたという反省から、内務省に警察行政を取り込み、全国の地方警察幹部の人事権を内務省に持たせた。また、各県の県令(知事)の任免権は内務省にあり、地方行政さらに勧業行政も加え、外務省と大蔵省以外の権限が内務省に集約されたのではないかと思えるほどの巨大組織にした。大久保はその長となり巨大組織内務省に君臨し、富国強兵と殖産興業政策を推し進めた。