第七章 道義国家
主権在民の弱さ
現在、もっともすぐれた政治形態は主権在民の民主主義である。共産主義と社会主義が衰退し、人類は民主主義以外の方法を見つけてはいない。日本では憲法で基本的人権が保障されている。それはあくまでも人として生きていく上での最低限のことが保障されているだけである。後は何もなく自由であり自由競争である。極言すれば、生きていけるだけの飯代は面倒見るが、後は税金を払えば死のうと生きようと自由であると言っているようにもきこえる。自由主義、資本主義経済の中に人は放り出され、己の才覚次第で勝ち上がっていか
なければならない。自由競争という意味では公平であり公正である。しかし、そこに
は「人の行うべき正しい道」すなわち道義という概念は含まれていない。自由競争とは、そこに一切の制限を課すべきではないという考え方である。自由競争という名の正義。与えられた機会は均等であるので、これ以上平等公平な方法はないではないかといっている。
確かに機会は平等である。たとえば宝くじで一枚しか買えない人と何千枚も買うことができる人とでは当たる確率は平等ではなくなる。宝くじを買うという機会は平等に与えられているが、人間には自己を利する欲がある。自分のために当たる確率を増やしたいと、あれこれ考えるものである。官公庁では競争入札が原則であるが隋意契約も多く、競争入札であっても談合により名目だけの競争となっている。
スタートラインに立つという機会は均等であり競争の自由は平等にあるが、同一条件での競争ではない。誰しも有利な条件で競争に勝とうとし、そして継続して勝ち続けることを願う。これは競争原理においては人が抱く必然のものといえる。それゆえ条件の良い者が勝者となりやすく、そうでないものが敗者となりやすい。このような状況は時がたてばたつほど、有利なものはますます有利となり、そうでないものはますます不利になるという二極化を促進していく。そして経済的格差と社会的格差を国民の中に生み出していく。
主権在民は愚民の中での主権在民であってはならない。しかしながら、経済的、社会的格差が広がると、多数の国民が自分が生活していくので精一杯となり、政治のことなど考える余裕もなく次第に愚民化されていく。 一人ひとりの国民に主権在民の意識が薄れ、政治は政治家の特権となり行政は公務員の特権となってくる。主権在民とは言っても、実態は選挙で投票するときのみの主権在民である。そこでは票は自分のものではなく、団体や組織やマスコミや風評のものとなってくる。
西郷が目指した道義国家とは、国民に人の行うべき正しい道を行ってもらうことであるから、国民に委託された政府は国民一人ひとりが人の道を行うことができるような環境をつくらなければならない。経済・社会全般においてそうしなければならない。
愚民化政策は許されない。国民を導き、ときには叱ることさえしなければならない。それが天の意志であり、すなわち国民の意志である。これはあまりに理想論すぎて空虚であるなら「天」という文字はなくしてもよい。主権在民の原点に戻してみても、政治は国民のためでなければならない。政治家や政党のためであっては決してならないのである。