目指す人間のモデル
西郷と松蔭の生き方を振り返り思うことは、人生の目標を目に見えるもの、すなわち地位や名誉や金や財産といったものを得ることに置いていないということである。二人とも目標を人間の成長に置いている。自身を古今の聖賢や英雄と比べ少しも見劣りしないと自負し彼ら以上になろうとしている。己がどれほどの人間になり得るか、そこに目標を置いている。
二人にすれば多くの人はなぜ「人間の成長」を目標にしないのか、不思議に思っている。「人間の成長」はすべて自分自身のことであり、自身の範囲でできることである。地位、名誉、金、財産のように他人がかかわらなければ得られぬものでなく、失ったり手に入ったり不安定なものもでない。自身で獲得したものはすべて自分のものであり生涯離れることはない。一生ものなのである。
松陰が生きていた時代においても、堯舜や孔子・孟子の話をすると、次のように受けとめられてしまう。
「俗人の癖として、古人(堯舜、孔子、孟子)と云へば、神か鬼か天人かにて、今人とは天壌の隔絶をなせる如き者と思ふ。是、自暴自棄の極」
(俗人の癖として古人というと、神か鬼か天人かで今の世の人々とは天地の隔たりがある人間のように考えているが、これは自暴自棄の極まりである)。
彼ら聖賢や英雄を歴史上の人物で片づけてしまい、自身は彼らに近づこうと一向にしない。彼らとて、われわれと全く同じ人間なのである。どうして彼らを見習い近づこうとしないのか。このことは、今も昔も変わらない。人間が超えなければならないハードルともいえる。幕末の松陰の時代であろうと二十一世紀の日本であろうと変わることなく、誰も孔子や孟子のようになろうとはしない。さまざまな歴史上の人物を教科書で学び知っているが、彼らはあくまでも歴史上の人物なのである。科学技術の発達によって幕末とは格段の開きがある現代社会ではあるが、人間の中身はほとんど進化していない。
いつの時代でもそうだが、人間はどうしても日々の生活で手いっぱいになってしまう。人間を立派にするとか、何事にも動じない胆力を練るとか勇気を養うとか、こういったものは酒のつまみのようなもの。あったらあったでよいが、生きて行く上で必ずしも必要でない、と多くの人は思っている。日常の出来事や人間関係の中で埋もれ、ついには忘れ去られてしまうのであろう。
松陰は野山獄の獄舎にあって『孟子』を講義し、これを聞く富永有隣や河野子忠ら囚人に向って声を大にし「苟も人々自ら激昂せば、今豈古に譲らんや。冀はくは今より諸君とともに激昂し、上往聖を継ぎ、下万世を開くに足らば、吾が党と雖ども亦古の人に非ざるはなし」(もし人々が自ら発憤して道を守ろうとするならば、古人に及ばぬはずはない。今から諸君とともに発憤し、上は往聖の教えを継ぎ、下は万世のために太平を開くことができたならば、われわれも古人そのものとなるのである)」と奮起を促している。
ヤドカリは体と同じ大きさの殻を探すという。人の志も家一軒建てるのを志としたら、志を達成した後は何が残るのであろうか。幕末維新の志士も倒幕を果たした後はヤドカリのようなものであった。江戸幕府が瓦壊し多くの大名屋敷が空になった。下級武士出身であった維新の志士が新政府の高官となり、そこへ競って入居した。想像さえしなかった大名屋敷を手にした高官の多くは舞い上がり、美妾をかかえ、衣服を飾りその屋敷に己を合わせようとした。全体として志が小さく低い。低いから目前の物欲にすぐ飛びついてしまう。
そしてこれらを維持・保持さらには増やすことに汲々とし、国家や国民のことは二の次三の次になってしまう。志と言えるほどのものは何も持たない。ただ時代の勢いや流れに乗った目ざといだけの者たちであった。西郷や松陰のように、純度の高い命を懸けるほどの志ではない。倒幕は、新しい政府を樹立し欧米列強と渡りあえる日本にすることが目的だったはずである。幕末は日本史上最大の国難である。武器、科学技術、産業ともに日本と格段の開きがある欧米列強が、日本にすきがあれば侵略しようと狙っている。その侵食の波はすでに中国に及んでいる。幕末、薩英戦争が勃発、四国連合艦隊による下関砲台の攻撃と占領が続き、欧米の火器の前に、雄藩と呼ばれた薩摩藩も長州藩も屈している。
英、仏、米、蘭の四国が下関を占領し、この戦争の賠償を求めてきた。長州藩の重臣はみな欧米人との交渉を恐れ腰が引けた。そこで脱藩の罪で自宅謹慎中だった晋作を急拠呼び出し全権使節に任命し四国連合艦隊との交渉に当たらせた。松陰は高杉晋作を「暢夫」と呼んで愛し、事をともに成すのは「暢夫」とであると、力量を高く評価した松陰門下の一番弟子である。高杉晋作は欧米人を飲んでかかれる度胸と気宇の宏大さを持っていた。
交渉のとき、晋作は藩の家老職の名である突戸刑ぎょう馬と臨時に変名し、古式にのっとった烏帽子、直垂姿で交渉に臨んだ。四国を代表した英国軍艦ユリアラス号内での交渉は、晋作の独壇場であった。彼らは下関海峡にある彦島の租借を申し出たが、晋作は、日本は神国であるので一坪たりと譲れぬと突っぱね、理由を古事記・日本書紀にある建国の歴史から滔滔と説き始めた。通訳アーネスト・サトウにも理解しがたい言葉とそのあまりに長い話にあきれかえった彼らは、彦島の租借をあきらめ、賠償金は幕府に請求することになった。このとき、晋作側の通訳であった伊藤博文が後に「高杉晋作がいなければ今ごろ彦島は香港になり、下関は九竜島になっていただろう」と述懐している。
松陰、一番弟子の高杉晋作、二番弟子の久坂玄瑞、この三人とも明治を見ることなく亡くなったが、三人なくしては長州藩の明治維新はなかったといっても過言ではない。倒幕までの前段では、玄瑞が藩を突き動かし過激な勤皇藩として京に出兵させ、後段においては晋作が奇兵隊を創設し、藩内では保守派と戦って制圧し、藩外では第二次長州征伐で領内に迫りくる幕府軍を撃退し長州一藩を倒幕藩にした。
一方、明治まで生きて維新の元勲となった長州の木戸、山県、伊藤、井上にしても、ヤドカリが殻を探すように、それぞれの体に合った地位や権力といった「殻」を求めていた。大久保にしても、志は大きいように見えるが、やはり己の体に合った「殻」を求めていたに過ぎない。地位や権力を得てその力をもって己のなせることをなすといったハードルの低いものである。西郷や松陰のように時代を突き抜け、道を行い聖賢を目指すという壮大な志でもなければ、天地を破るほどの気魄を持った本物の志でもない。
大久保は鉄血宰相ビスマルクを己のモデルとした。一八七三年(明治六年)三月、岩倉遣欧使節団がドイツを訪れたとき、大久保はビスマルクに会って、ビスマルクが小国プロイセンから出て大国ドイツ帝国を築きあげた手腕に感銘を受け彼を「大先生」と呼び尊敬するのである。大久保が強力に推し進めた殖産興業や富国強兵政策は、ドイツの官僚主導主義やビスマルク型の政治手法をモデルにした。
大久保はドイツ型、ビスマルク型という「殻」を見つけ、そこに入りこもうとしたのである。自身の性格や好みとも相まって日本の近代化もこの型で行うべしと思った。いざ帰国してみると、そこには自分と明らかに違う型を持っている西郷や副島や江藤が政権を握っている。自分の信じる型を推し進めるためには、彼らを政権から追い払う以外にはないと決意し、その材料としたのが征韓論争である。この政変(明治六年の政変)で西郷らが政権を去ると、大久保は直ちに強大な内務省を設置して自ら長となり、伊藤と大隈を補佐役として参議に加えた。名実ともに大久保政権としてドイツ型、ビスマルク型を日本の近代化に当てはめて行こうとしたのである。
その善しあしは分らないが、明治維新後百四十二年、大久保がモデルとしたこれらの型は現代の日本において生きている。ペリーの恫喝外交で日本はしぶしぶ開国させられ、日米開戦と続くが、今日に至ってもなお日本には広大な米軍の基地が存在する。欧米の租借地となりかけた彦島は晋作によって租借を免れたが、米軍基地という租借地は戦後六十年以上経てもいまだに残っている。
日本の歴史を見るとき、日本の大変革期に大きな犠牲を出さず見事な手際で建設された明治国家ではあったが、征韓論争後は大久保をはじめ洋行組が日本の舵取りをした。そのため、欧米の科学技術や文化を「善」なるものとし模倣し追随するあまり、その半面、中国や朝鮮といった東洋の文化や人を軽視した。いわば身内ともいえる東洋人には強いが、西洋人には弱い内弁慶的な傾向を日本人の精神に少なからず植えつけた。
西郷は『遺訓』の中で、「日本は明治国家を樹立し開国し欧米列強をはじめ世界中の国と相対することになった今、戦国時代の信長や信玄や謙信、秀吉、家康といった戦国の勇将・猛士よりなお一層の猛き心を奮い起すのでなければ、帝国主義、弱肉強食の時代に各国と対等にやってはいけない」と述べている。西郷はこの意識をもって世界と相対しようとしていた。また、外国との交際・交渉は「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず」(正しい道をふみ、国を賭して倒れてもやるという精神、覚悟がなければ外国との交際・交渉はこれを全うすることができない)と説いた。
西郷が強調するのは、国家とは自国の安全や利益のためであれば非道なことも平気でできるという点である。国家という組織体が持つ宿命ともいえる。十九世紀という帝国主義、弱肉強食の時代ではなおさらのことである。これらのことを百も承知でなければならない。非道なことに対しては日本一国をもって戦い倒れてもよしとするほどの覚悟で臨まなければならない。また、この覚悟を持てる国力と国民一体の体制がなければならないという。
西郷も松陰も罪人であり入獄していた。高杉晋作も脱藩の罪で一時期、野山獄に入獄していた。なかでも松陰は何の権力もない一介の浪人であり、しかも獄舎内で首を斬られる。しかしながら、こと倒幕ということでは、西郷と松陰が果たした役割は非常に大きいのである。
二人とも権力を得て行ったのではまったくない。それぞれの個の力である。二人の「日本を救わなければ」という無私の思いであり、またこれをなすための大いなる志と己の力量を日々増していた結果といえる。権力がないとできない、地位がないとできない、金がないとできないと不満を口にする人は多いだろうが、二人の行動はそれらがなくとも「事を成す」ことができることを証明している。下手に権力を得て「事を成そう」とすると、我欲が入り自己流となりがちである。そのため、スピード、効率、効果に欠け当初の目的からはずれ変形してくる。