神仏を尊み 神仏をたのまず
この言葉は宮本武蔵の「独行道」二十一箇条の一つである。「神や仏を敬い尊ぶが、神や仏を頼ったり当てにすることはしない」という意味である。独行道二十一箇条は、武蔵が死の七日前に自らの半生を振り返り、兵法者として生きるための行動規範をまとめたものである。
吉川英治の小説『宮本武蔵』には、京都洛外の一乗寺下松で吉岡一門七十二人を相手に戦いをしなければならなくなった武蔵が、いまだ明けやらぬ早朝、独り一乗寺下松に向うとき、途中にあった神社の前で足を止め、思わず神に祈願しようとするその心を振り切って決闘場に臨む姿が描かれている。七十二対一の絶対に勝ち目のない戦いである。武蔵でなくとも神や仏にすがりたくなるであろう。
一人の力は微力である。人は病気になったり、自身の力ではとても対処できない出来事に出合ったりしたとき、人智をはるかに超えた神や仏といった存在に頼ろうとする。生か死の局面にあって神仏に頼ろうとする自身の心の弱さが死に直結すると武蔵は経験から知りえたのであろう。実際、神や仏は何もしてくれない。また安易に助けることはできないし、してはならないのである。自分のことは自分で対処する以外にない。厳しい事態であればあるほど、神仏に頼みたくなるときであればあるほど、自らの力以外頼むべきものはないのである。人間とは本来そういうものであるはずだ。しかしながら、多くの人は自分自身をより強く大きくしようとはせずに、ほかの力を借りようとする。
何千年何万年と連綿として繰り返されていく人間の生と死。そのなかにあって生と死を超えて人間のDNAのように、永遠に伝えていかなければならないものを西郷は「人の道」と呼ぶ。『遺訓』の中で西郷は「道を行う者は、固より困厄に逢うものなければ、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬもの也」と述べている。西郷が説く道は、生死や事の成否に左右されることはない、そのとき、そのときで途切れてしまう人間の生や死ではなく、生死を超えたところにある、人であるための行為である。道義、正道と呼んでいる。ここに神仏に頼るという発想はない。ひたすら人の行うべき正しい道を行い、自己を強く大きく、そして人として極め得る高さまで登ろうとする行為があるのみである。