西郷党BLOG

道を行う者 西郷吉之助 p039 第四章-07

一箇の大丈夫西郷吉之助

道を楽しむべし

「道を行うには尊卑貴賤の差別無し。摘んで言へば、堯舜は天下に王として万機の政事を執り給へ共、其の職とする所は教師也。孔夫子は魯国を始め、何方へも用ひられず、屡々困厄に逢ひ、匹夫にて世を終へ給ひしか共、三千の徒皆道を行ひし也」
(『遺訓』二十八項)
(道を行うことに身分の尊いとか卑しいとかの区別はなく、誰でも行わねばならないことだ。要するに昔、中国の堯舜は国王として国のまつりごとをとっていたが、もともとその職業は教師であった。孔子先生は魯の国をはじめどこの国にも用いられず何度も困難な苦しいめにあわれ、身分の低いままに一生を終えられたが、三千人といわれるその子弟は皆その教えに従って道を行ったのである)西郷は孔子を例に挙げて、人が道を行うことは王侯貴族の地位や名誉よりも、またどんなに富を得ることよりも人間にとって価値があると説いている。実際に秦の始皇帝といえど、漢の高祖劉邦といえど、歴史に名を連ね事業を成し遂げても、孔子のように現在に至ってもなお多くの人々に人としての生き方を教え続けているわけではない。「孔子を教師とせよ」と西郷は言う。

世界の三大聖人といえばいまだに孔子・釈迦・キリストである。二千年以上経っても彼らを超える聖人は出てきていない。科学技術は進歩したが、人間の精神は停滞したままであるのかもしれない。彼らは神や仏と崇め祭られ、とても塾講師のように気楽に教えを請えない。また西郷のように「釈迦やキリストを教師とせよ」と大それたことを習い事の先生でも指すように言えるほど大きな人間はこの世にはいない。あまりにも急激な人類文明の発展に人間自体の進化が追いつかないのであろうか。現在の世界の情勢や出来事を見ているとそのように思えてくる。次の文章は『遺訓』二十九項である。道を行う者、西郷が道を志す者に道を行うことがいかに大切で重要であるかを説いている。

「道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔などに、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動かす人も有れ共、人は道を行ふものゆえ、道を蹈むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管すら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢うて之を凌がんとならば、弥々道を行ひ道を楽む可し。予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆえ、今はどんな事に出会ふ共、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也」
(道を行う者はどうしても困難な苦しいことに会うものだから、どんなむずかしい場面に立っても、その事が成功するか失敗するかということや、自分が生きるか死ぬかというようなことに少しもこだわってはならない。

事をなすには上手下手があり、物によってはよくできる人やよくできない人もあるので、自然と道を行うことに疑いをもって動揺する人もあろうが、人は道を行わねばならないものだから、道をふむという点では上手下手もなく、できない人もいない。だから一生懸命道を行い道を楽しみ、もし困難なことにあってこれを乗り切ろうと思うならば、いよいよ道を行い道を楽しむような境地にならなければならぬ。自分は若い時代から困難という困難にあって来たので今はどんな事に出会っても心が動揺するようなことはないだろう。それだけは実にしあわせだ)

この二つの『遺訓』の文章を見ると、西郷はまさしく「道」の伝導者であることが分かる。正しい道を生きる上で基本におくべきことを、一人でも多くの人に伝えようとする西郷の気魄にも似た思いを感じる。西郷は政治家を志した者ではない。権力を得ることを志した者でもない。道を行うことを志し、道を行う者の練達者・大丈夫たらんとした者である。青年時代郡方書役の職にあったときも、藩の農民に対する税の苛酷なまでの取り立てを見るに見かねて、農政の改善改革を求め、たびたび藩庁に建白書を提出していた。その建白書が藩主斉彬の目に止った。討幕運動の時代にしても、日本を欧米列強に侵食されることなく変革しようと、道を志す者として救国の役割を果たそうと思った。

倒幕の過程における薩・長・土・肥のさまざまな思惑と朝廷内の権力闘争が錯綜する中、その思いが「江戸城の無血開城」という見事な結果を招き日本史上の大変革を成し遂げたのである。勝海舟は『氷川清話』の中で「世間は生きている、理屈は死んでいる」と題し、西郷について次のように述べている。「世の中のことは、時々刻々変遷窮まりないもので、機来たり機去り、その間実に髪を容
れない。こういう世界に処して、万事、小理屈をもって、これに応じようとしても、それはとても及ばない。この間の消息を看破するだけの眼識があったのは、まず横井小楠で、この間に処していわゆる気合を制するだけの胆識があったのは、まず西郷南洲だ。おれが知人の中でことにこの二人に推服するのは、つまりこれがためである」
「何事も知らないふうをして、独り局外に超然としておりながら、しかも大局を制する手腕のあったのは近代ではただ西郷一人だ」
西郷が沖永良部島から召還されたのは一八六四年(元治元年)だ。それから江戸城開城まではわずか四年間である。その間は日本史に類を見ない動乱激動の時代だった。その始まりは、久坂玄瑞ら松下村塾生に突き動かされた長洲藩が、あろうことか二千の兵を率いて京に進軍した一八六四年(元治元年)の禁門の変である。長州軍は、会津藩と薩摩藩の連合軍により京から撃退され、両藩に対して「薩賊会奸」と憎しみをぶつけた。

しかし、第一次長洲征伐の後、一転して薩長連合が結ばれる。第二次長州征伐、大政奉還、鳥羽伏見の戦いと息をつく間もなく激変する局面にあって、海舟が評しているように時には剛腕ともいえる手法で西郷は大局を制し、国内戦争の被害を最小限にとどめ、しかも欧米列強に侵食されることなく新国家を成立させたのである。この間の西郷の功績はどの史家にも高く評され、西郷なくしてはこのような形での新国家樹立は成し得なかったのも事実である。江戸城受け渡し直後の海舟の話がある。「官軍が江戸城にはいってから、市中の取り締まりがはなはだめんどうになってきた。これは幕府はたおれたが、新政府がまだしかれないから、ちょうど無政府の姿になっていたのさ。しかるに大量なる西郷は、意外にも、実に意外にも、この難局をおれの肩に投げかけておいて、いってしまった。

『どうかよろしくお頼み申します、後の処置は、勝さんがなんとかなさるだろう』といって、江戸を去ってしまった。この漠然たる『だろう』には俺も閉口した。実に閉口したよ。これがもし大久保なら、これはかく、あれはかく、とそれぞれ談判しておくだろうにさ、さりとはあまり漠然ではないか。しかし考えてみると、西郷と大久保の優劣は、ここにあるのだよ。西郷の天分がきわめて高い理由は、実にここにあるのだよ。西郷はどうも人にわからないところがあったよ。

大きな人間ほどそんなもので……小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでないのう」(『氷川清話』)この西郷のゆとりはどうであろう。どこから来るものであろうか。昨日の敵であった勝海舟に江戸鎮撫の全権を委任して、己はまだ戦闘が続く東北戦線へさっさと行ってしまう。この戦争(戊辰戦争)の真の目的とは何か。それは迫まり来る欧米列強に対峙できる日本の政府をつくることである。

彼らに侵食のすきを与えないように、いかに素早く効率的に新政府を樹立できるかが、この大事業の成否のかぎだった。西郷の活躍により目的を達成し、新政府の成立が確実になった。その政権内で己の権力基盤を確保しようと、布石をするのが普通である。己の欲望をそろそろ権力に向けてくるものである。しかし、西郷は一切それをしなかった。もともと道を行う者として日本の国難に救国の役割を果たすべく、仕事をしただけであった。地位や名誉や権力が欲しいなどと言ったら、いにしえの聖賢に「西郷も欲の深い奴よ、未熟な奴よ」と笑われてしまう。

第二の維新ともいわれる廃藩置県にしてもそうである。二百六十一の藩を廃し、そこから軍と徴税権を取り上げる。新政権内で地位と権力をすでに保持していた大久保、木戸、岩倉さらに山県、井上は、内戦や内乱となり既に得ている地位や権力が失われることを危惧した。そこで、この役目を西郷に一任するのである。西郷はわけないと思った。戊辰戦争を指揮し前線で戦った経験から、旧幕府や諸藩には反抗する力はないと判断していた。権力や地位といった欲望に左右されない西郷には、物事の実相がよく見える。鹿児島で隠棲していた西郷はこの仕事を受諾すると、ただちに薩・長・土・肥の四藩に御親兵を提供させる手配りをして自身も上京。参議に就任し御親兵一万の威力をもとに廃藩置県を断行するのである。後のことであるが、道を行う者西郷であったら一八七三年(明治六年)の朝鮮との外交も見事に成功させていたに違いない。

道を行うことは人が行うべき正しい道を行うことであり、それは天地自然の道に通じるものでもある。「道を行う」ことは決して直線的なものではない。道を志し幾多の困難を経て「若し艱難に逢うて之を凌がんとならば、弥々道を行ひ道を楽む可し」という「道を楽しむ」心境にまで己を鍛えあげ、人間としての強さと大きさを持ち得てこそ真の「道を行う」者なのである。そして、人としての余裕を持ち、考えや行動は融通無む碍げとなり、生あるを楽しむ人間となる。西郷はまさしく「道を楽しむ」者であり道の練達者であった。

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