西郷党BLOG

西郷魂 西郷吉之助 p048 第五章-08

一箇の大丈夫西郷吉之助

普段

西郷の平生の心のありようは平事も有事、有事も平事といった宮本武蔵のような兵法者の心掛けである。いつ何時どんな事が起きようと、普段からそれに応ずる心構えをしておく。そして起こった出来事に対して十分な対応ができるよう常日ごろから己の力量を高めておけと西郷は説く。日々勇を養い胆力を練り、さまざまな知識を学び人情の機微にも精通し、そして天地自然、宇宙にある法則を知っておく。「変起らば、只それに応ずるのみなり」と言い切る西郷は兵法の達人の心構えでもある。幕末維新は日本史上最多の人材が輩出されたが、一人西郷が別格であるのは、このような人間の磨き方をしていたからであろう。

日本の命運を決したとも言える西郷と
勝海舟の品川薩摩屋敷での談判のとき、その様子が「少しも一大事を前に控えたものとは思われなかった」と海舟をして感嘆せしめている。西郷が考える道を行う者とはなんでもできなければならない。ただ単に、修行僧、思想家や宗教家のようにそれだけやっていたらよいのではない。真に道を行う者とは人間道の達人であらねばならない。そのためには、ありとあらゆるものを修行し訓練し己の絶対的力、総合力を高めていなければならない。そうでなければ「一点動揺せず、安然としてその事を処する」力量は生まれない。
『遺訓』の次の文章は西郷がいかに普段の訓練や修業を重要と考えていたかが分かる。

これを見ていると宮本武蔵の『五輪書』に描かれた剣の道を思わせる。
「変事俄に到来し、動揺せず、従容其変に応ずるものは、事の起らざる今日に定まらんずんばあるべからず。変起らば、只それに応ずるのみなり」
(変わったできごとが急に起こった時、心を動揺させることなく、ゆったりと落ちついてそれに対応するという心構えは、まだまだ起こらないときに定まっていなければならない。もし変わったことが起こった時は、ただそれに対処するだけである)
「事に当り思慮の乏しきを憂ふること勿れ。凡思慮は平生黙坐静思の際に於てすべし。有事の時に至り、十に八九は履行せらるるものなり。事に当り卒爾に思慮することは、譬へば臥床夢寐の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し」
(ある事がらにあたって考えの乏しいことを心配することはない。およそ物事に対する考えというものは、かねて無言のまま座っている時、心をしずめている時にすべきことである。そうすれば、何か事のある時には十のうち八、九はやりとげることができるものである。一つの事がらに出会ってその場で軽はずみにいろいろ考えるということは、たとえ寝床で夢をみている間にすぐれた方法や考えを得ることができたように思うが、あくる朝目覚めて起床するときには、役に立たない、正しくない想いに終ってしまうようなことが多いものだ)
「平日道を蹈まざる人は、事に臨みて狼狽し、処分の出来ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生処分有る者は動揺せずして、取仕末も能く出来るなり、平日処分無き者は、唯狼狽して、なかなか取仕し末どころには之無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非ざれば、事に臨みて策は出来ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝いて見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ」(かねて道義をふみ行わない人は、ある事がらに出会うと、あわてふためき、どうしてよいかわからぬものである。たとえば、近所に火事があった場合、かねてそういう時の心構えのできている人は少しも心を動揺させることなく、てきぱきとこれに対処することができる。

しかし、かねてそういう心構えのできていない人は、ただあわてふためき、とてもこれには対処するどころの騒ぎではない。それと同じことで、かねて道義をふみ行っている人でなければ、ある事がらに出会ったとき、りっぱな対策はできない。自分が先年戦いに出たある日のこと、兵士に向って自分たちの防備が十分であるかどうか、ただ味方の目でばかり見ないで、敵の心になってひとつ突いて見よ、それこそ第一の防備であると説いて聞かせたと言われた)

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