箇(人間ひとり)の意識改革
西郷は人間一人ひとりの個を強く大きくしようとした。外見の強さではない。心の大きさや人間としての強さである。世界を変えていくためには意識(思考)を変化させる以外にない。西郷のいた当時の薩摩藩においても、藩士は忠孝の教えや道徳教育を受けていたが、農民に対する徴税は当然と思っており、それが苛酷な取り立てであっても致し方ないと考えた。藩士はあくまでも藩という組織の官僚であり、農民とは別の存在であり、しかも支配者であった。武士であっても「道を行う者」ではない。忠孝や道徳は主君、家族、同じ藩士に対するもので、農民に対するものではない。結局は、藩も藩主の所有物であり私(わたくし)のものである。そのため、薩摩藩主の座をめぐって斉彬派と久光派が血で血を洗う抗争を演じた。藩士もわが身の安泰を図り立身出世を望む。
地位と権限を得ようと私(わたくし)の競争を演じる。そこにあるのは都合のよい正義であり、私欲の武士道であり忠義である。正義や大義といったものは実に変質しやすく、崩れやすくまた消滅しやすい。そして「勝てば官軍」というように、勝者や権力に弱く、どうにでも塗り替えられてしまうのである。何もこれは封建時代に限ったことでなく、現代の民主主義社会でも見かけだけの正義や大義をかざした戦争や紛争は今でもある。また、政争、宗教対立、さまざまな組織内の抗争に正義や大義は利用されている。口で唱える正義、大義、道徳、人道ほど軽いものはなく、そして汚れやすいものはない。西郷の言う「口頭聖賢」である。
実際、多くの人は「口頭聖賢」であり、「道を行う」者や道義を実践できる者は極めて少ないのである。個人は弱く、限界があるものだと信じていて、己の個そのものを強く大きくしようとは思わない。仲間をつくり組織をつくり、それに守られてその中での強さを求めようとする。さまざまな大小の組織や集団に属しその中で権力や権限を得ることで個が強くなったと思っている。しかし、それは組織や集団が持っている力であって、個の強さとは別のものである。「組織や集団に頼らず己自身の個を強く大きくせよ」。それには道を行うことである。人は道を行うことによって強く大きく成長する。道は人間の正しい生き方であり、何千年何万年と受け継がれてきた人の道であり不変の法則である。道を行うことによって人として強くなり、人として成長し、そして生きる目的も知ることができる。
西郷は、道を行うことは人間が天地自然の道すなわち宇宙の法則に従うことであると述べている。二千年前に釈迦やキリストが実行し人々に伝えようとしたことでもある。西郷は「人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只
管ら道を行い道を楽み、若し艱難に逢うて之を凌がんとならば、弥々道を行い道を楽しむべし」と説く。多くの人々が西郷の「道を行う」ことを意識し、そして「道を楽しむ」という行動ができたなら、それは人間の意識の革命であり、人間社会はさらに進化し味のあるおもしろい社会となるであろう。