西郷党BLOG

宇宙に立つ 西郷吉之助 p055 第六章-04

一箇の大丈夫西郷吉之助

人類を進化させよ

自分自身を高めることを終生の仕事とする。学校に行き勉強し、いろいろなことを学ぶ。そして就職し仕事をする。家庭を築き子育てをする。これらをとおして自分自身を高めていく。仕事で金持ちになろうと、学者になろうと、地位や名誉を得ようと、またどの職業にあっても、道義を基本に置いて行動する。多くの人々がこれを生き方の基本として生活する社会。西郷の望む道義社会であり、道義国家といえるであろう。しかしながら、これは二十一世紀の民主主義社会でも難しい。地球上の人類は物質主義であり、人の心の大部分はよりよい物をより多く持ちたいという意識で占められている。家や車や食べ物や衣服といったさまざまな生活用品はもちろん、芸術やスポーツや趣味など幅広い分野で物を必要とする。生活のすみからすみまで物質が存在し、物質なしではいられないのである。

人類が道具を持ち使うようになって以来、長い期間よりよい道具(物質)をより多く所持することが善であるとされてきた。政治、経済、芸術、科学も、よりよい物質、素晴らしい物質を創造し発見し、開発し生み出すことが、人類の文化であり発展であり進化であると思われてきた。今日のように人類文明が発展したのも物質主義の意識のおかげだったことは確かだ。しかしながら、一方では物質の争奪という競争を生んだ。この争いに勝つためには、他者より力が強くなければならず、必然的にさまざまな仕組みや工夫がなされた。古代においては、王制、貴族制、そのほかの身分制度など、支配者とその一族に物質を安定供給するための実にさまざまな方法を考え尽くした。帝国主義、資本主義の時代になると、国家間の物質の争奪戦にさえなった。

現代の民主主義ではあからさまな物質の争奪戦は少ないが、それでも石油や天然ガスをめぐっての国家間の争いはある。また、物質ではないが、さまざまなサービスが考え出され貨幣に変換されて取り引きされている。現代の資本、自由主義社会は極言すれば、貨幣という物質の個人間、あるいは国家間における奪い合いであるといえなくもない。

西郷は貨幣にあまり縁がなかった。下級藩士の家に育ち大家族であったため貧乏であった。島津斉彬に見いだされ秘書官となり国事に奔走したことから、家計を見たり蓄財したりする暇はなかった。そして、斉彬の死と月照との入水事件による奄美大島への三年に及ぶ島流し。帰藩して席のあたたまる間もなく、再び沖永良部島へ二年近い島流しに遭う。再び帰藩したときは、そこは幕末動乱・激動の渦中であった。このときから一八六九年(明治二年)、戊辰戦争が終結するまでの約六年間は西郷は息つく間もなく薩軍を率い戦い続けねばならなかった。

西郷がまとまった貨幣を手にしたのは、維新の功績によって明治政府から賞典禄二千石を賜ったときである。しかし、それも蓄財の対象としなかった。征韓論下野後の私学校はこの賞典禄をもとに設立したのである。西郷自身、貨幣というものの役割を十分知っていたし、その必要性と重要性も理解していた。同時に人間のさまざまな欲望と結びついたときの怖さも分かっていた。貨幣(物質)はあくまでも道具(物)として活用されるべきであり、人の心を支配させてはならないと考えていた西郷の有名な言葉に「児孫のために美田を買わず」がある。かわいい子や孫に財産を残さないというのである。人類の連綿と続いた進化のDNAとでもいうべき物質主義に逆らう言葉である。西郷は我欲に勝つことと欲を少なくすることを終生の修業の課題としていた。逆らうことによって、今まで見えなかったものが見えるようになり、分からなかったことが理解できるようになるものである。

大自然や宇宙に我欲はない。釈迦やキリストや孔子も我欲との戦いの人生であったといえる。彼ら以外にも多くの先人が我欲に勝つことを人間成長の目的としていた。西郷は維新の元勲でありながら大久保、木戸、岩倉や山県、伊藤、大隈といったほかの元勲と違った行動をとったのはなぜであろうか。明治維新後百四十二年、西郷が平成のわれわれに言わんとすることは何であろうか。日本は世界第二位の経済大国となって久しい。現在の日本は明治初年と比べたら驚異の発展を遂げ、西郷が唱えた道義国家にも近い存在である。今後日本がさらなる発展を遂げようとするならば、物質主義一辺倒に陥らないために、「道義」という要素を取り入れ、物質と精神のバランスを保つべきである。

科学技術がますます発達し、それに伴って物質文明もさらなる拡大をみせる。そのとき、道義という人間の根源であり人であるための法則を、物質文明に取り入れ融合させることこそ、人類の新たな進化につながるのではないだろうか。日本史の大変革期に聖賢を志す者、道を行う者、一個の大丈夫西郷吉之助を存在させたのは、人類にとって道義がいかに重要であるか、天は証明させたかったのであろう。

PAGE TOP