第一章 一箇の大丈夫
なぜ西郷の写真は一枚もないのか
西郷は一八七七年(明治十年)まで生きていた。
幕末動乱の時代を生きた坂本龍馬や高杉晋作は明治を見ることなく亡くなったが、写真は残っている。
維新の三傑、大久保利通、木戸孝允はもちろん、討幕の志士として明治まで生き残り政府の高官となった井上馨、山県有朋、伊藤博文、大隈重信、板垣退助の写真も多く残っている。
一八七一年(明治四年)十一月、遣欧使節団として岩倉を正使とし大久保、木戸ら時の明治政府の高官が多数、欧米視察に二年近く出かけた。
同年七月、代表参議となり廃藩置県を断行したばかりの西郷が留守政府をあずかることになった。
この間西郷が明治政府のいわば首相とも言える立場にあり、その仕事をしていたのである。
写真を撮ろうと思えばいつでも撮れる環境にいた。また、写真を撮ることを何度となくすすめられたこともあったであろう。
しかしながら、いまだに一枚も発見されていないのである。
西郷は極端な写真嫌いであった。それで一枚も撮らなかったので写真がない。これが現在までの定説となっている。果たして本当にそうであろうか。西郷は明治六年の政変(征韓論争)で下野し再び中央政府に戻ることはなかった。
そして一八七七年(明治十年)の西南戦争である。
ある面、織田信長以上にわかりにくく複雑でとらえがたい人物である。当時においても西郷を知る人物は勝海舟であると思われていたぐらいで、ほかの人には西郷が見えなかった。現在においてもいまだに誤って解釈されていることが多い。
明治国家建設の最大の功労者が何を不満として戦争を起こしたのであろうか。
そんな不可解な行動は世間一般には理解されようもなく、西郷への非難、攻撃、悪評は多かった。このままでは後世の史家の目を誤らせると、福沢諭吉は著『丁丑公論』で西郷の弁護をしたほどであった。
西郷が下野ののち、自伝や討幕維新の回顧録でも著し、悠々自適の生涯を六十歳か七十歳で終えていたら西郷像は理解しやすく、今とは違った「西郷隆盛」となっていたであろう。いかんせん、何も言葉にすることなく四年後(明治十年)には死んでしまった。
「西郷の写真ぎらい論」もなんら検証されることもなく、「旧体制から抜け出せない人間である」「士族の没落を情として見るに忍びなかった」「政策のない武断主義の情の人間」など当時から形成されつつあった西郷像に「写真ぎらい」も符合していったのである。
西郷はそんな単純で底の浅い人間ではない。その行動、考え方の原理原則がどこにあるかを探さなければならない。
西郷は自らを「道を行う者」とし「聖賢を目指した人間」である。このことを基点として西郷の言行を観察しないと大いに見誤ってしまう。
西郷が三十二歳から三十七歳まで五年間にわたり奄美大島や沖永良部島に流されていたとき、持って行ったのが佐藤一斎の『言志録』である。『言志録』は佐藤一斎が自らの哲学・思想・人生観を朱子学にもとづき著した千百三十三条からなる四十二歳から八十二歳までの言行録である。
その中から西郷は百一条を選び出し、携帯できるようにして自らの行動や考えの指針とした。それが『南洲手抄言志録』である。その十六項に次のような文章がある。
「賢者は歾するに臨み、理の当に然るべきを見て以て分と為し、死を畏るることを恥じて死に安んずることを希う。故に神気き
乱れず。又遺い訓有り、以て聴を聳かすに足る。しかして其の聖人に及ばざるも、亦此に在り。聖人は平生の言動、一として訓に非ざる無くして、歾するに臨み、未だ必ずしも遺訓を為さず。死生を視ること、真に昼夜の如く、念を著くる所無し」
(賢者は死に臨んで、当然来るべきものと考え、死は生者の責任であることを覚悟し、死を畏れることを恥じ、むしろ安らかに死することを希望する。故に、精神が乱れない。また、残された教訓があって、傾聴するに値するものがある。しかし、賢者が聖人に及ばないのも、この遺訓の点にある。聖人は、平生の言動がすべて教訓となるものであって、歿(ぼっ)する時に改まって遺訓を述べることはしない。死生をみることが、まるで昼夜のようであって、特別のものと考えないのが聖人の死生観である)
ここには聖人の言行の形が述べてある。いかに西郷が聖人をモデルとして己をその形に合致させようとしていたかが分かる。まるでダイヤルを合わせるように、自身の行動と考えを聖人の言行に一致させようとしている。
「平生の言動、一いつとして(同じであって)」「死生を視ること、昼夜の如し」、そして「遺訓をつくらず」というのが聖人であるとすれば、西郷に「写真を撮る」という発想は浮かぶはずはない。
当時は写真機が発明されて間もない時期である。よほどの目的がある場合か、あるいは肖像画を描かせ自己の存在や偉業を後世に残そうとした王侯貴族や功成り名を遂げた者たち以外には写真は高価であり、一般庶民には撮ることはできなかった。今日のように大衆が誰でもカメラを持てる時代ではなかった。
西郷が「討幕はこの吉之助独りの力によるところが大きい。長州藩単独の討幕は不可能であったろうし、木戸が長州をまとめきれるはずもない。薩摩軍にしても大久保では動かすことはできず、吉之助だから動かすことができた。新国家建設への貢献は大であり、それは衆目の一致するところである。参議・陸軍大将・近衛都督そして正三位の栄誉は後世に残したい」という思いを少しでも持っていたら写真は残っていたであろう。
一八七一年(明治四年)から一八七三年(明治六年)まで留守政府の首相的地位にあったのに一枚もないというのは見事というほかない。死んだ後も評価されたい、後世の名声を得たいという我欲にかられるようでは、「死生を視ること昼夜のごとし」という聖人のレベルでは到底ありえないのである。
それでは口頭聖人(口先だけの聖人)である。『西郷南洲遺訓』にある西郷の思想を見ても分かるように、また今日のように有名人が写メールでたまたま撮られる場合ならまだしも、西郷自身が当時の環境で進んで写真を撮らせるということはまったくなかったであろう。陸軍大将の正装で威儀をただした西郷の写真でも発見されたら、西郷の『遺訓』にある言葉がうそになってしまう。