一箇(人間ひとり)の偉大さへの挑戦
「棒ほど望んで針ほど叶う」という言葉がある。勝海舟の望みはなんだったのであろうか。貧乏御家人の家に生まれ、オランダ語を学び航海術を習い、咸臨丸でアメリカに行き、時代の要請で幕府軍艦奉行となった。
欧米列強に日本を侵食させまいと、幕府をあまり傷つけずに新政府へスムーズに移行させることが望みであったといえる。明治となり新政府に仕えたが、それは二次的なものであり、多くは評論家的に余生を送った。一八九九年(明治三十二年)、七十七歳まで生きている。
日本の国家公務員、地方公務員の定年は原則として六十歳である。大多数の民間企業においても現在は六十歳定年制をとっている。百四十年前の四十五歳〜五十歳が、現在の六十歳ぐらいだろうか。
海舟は一八六八年(明治元年)に四十六歳となり、西郷は西南戦争のとき五十歳である。六十歳を過ぎると人生の先が見えてくる。育った子や孫の行く末を案じたり、自身の老後の過ごし方を考えたりするのが普通である。
海舟も五十三歳となった一八七五年(明治八年)十一月以降は官に就くことはなく、この時期から二十余年を数々の書を著すなど悠々自適の生活を送った。若いときから三十年四十年と働いてきたのだから、老後はゆったりとゆとりをもって自分の好きなことをして生きたいと、誰しも願うものである。そう思うのが一般の考えであり、また六十を過ぎてあれこれ望んでできるものでもない。
しかしながら、『遺訓』や西郷の選んだ百一項の『言志録』の中には、道を行い聖賢たらんとする西郷の脈々たる闘志があふれ出ている。六十歳定年どころではない。
この志はたおれて後止むという気概である。そこには老いによる停滞などは全くない。
ただあるのは、人間という生命体がどこまで人の道の高さへ登れるかだけがある。西郷はひたすらそういう思いで一日一日の生をいきていたのであろう。
次の文章は『手抄言志録』四十二項と百一項である。この項を西郷は何度も、いや何百回も読んだことであろう。
「憤りを発して食を忘る、志気是の如し。楽しんで以て憂いを忘る、心体是の如し。
老の将に至らんとするを知らず、命を知り天を楽しむもの是の如し。聖人は人と同じからず、又人と異ならず」(四十二項)
(孔子が「好奇心が篤くて会得しない時に、憤りを発し〈精神を奮い起こす〉て食事も忘れてしまう」ということは、孔子の志「志気」がこのように旺盛であったことを示すものである。
孔子が「真意を会得すると、心から喜び楽しんで心配事も忘れてしまう」ということは、孔子の心根〈心の底、心情〉がこのようにいかに爽快であったかを示すものである。孔子が「勉学と修養に専念して年をとるのも気がつかなかった」ということは、孔子がこのように自分の天命を知り天道〈自然〉を楽しんでいたことを示すものである。このように考えると、孔子は普通一般の人々と同じではない〈忘食・忘憂・忘老〉ようであるが、また一般の人々と別に異なってもいない〈食べ、憂い、老いる〉ようである)「身に老少有りて、心に老少無し。気に老少有りて、理に老少無し。
須らく能く老少無きの心を執つて、以て老少無きの理を体すべし」(百一項)
(人間の体には年寄りと少年の別はあっても、心には老少はない。体の働きには老少があっても、道理に老少はない。是非とも、年寄りだの、若者だということのない心をもって、万古に変わらない、老少のない道理を体得しなければならない)
西郷は文の聖人ではない、武士の聖人たらんとしている。征韓論で下野し郷里鹿児島に帰ったが、「道を行う」という思いは、「老の将に至らんとするを知らず」であり、その行動は気魄に満ちた青年のごとくであったろう。
西郷が書いた「私学校綱領」は、青年に檄を飛ばすかのような血気に満ちた文章である。
私学校綱領
一、道を同し義相協ふを以て暗に聚合せり。故に此理を研究して道義におひては一身を顧みず必ず踏み行ふべき事。
一、王を尊び民を憐むは学問の本旨、然らば此天理を極め、人民の義務にのぞみては一向難に当り一同の義を立つべき事。
この文を見ると、西郷自身がいよいよますます道を踏み行うべきと覚悟していることがひしひしと伝わってくる。年をとり老いて枯れるなどという発想はどこにもない。この時西郷は四十七、八歳であろう、今日では五十七、八歳である。
人間は生あるかぎり壮大な志に向って突き進まなければならない。停止してはならない。停止は停滞ではなく後退であり、後退は衰退につながる。人間はもともと偉大な存在である。「孔子を学ぶ者は孔子の志をもって志とすべし」というではないか。
もっと望みを大きくして、人はみな聖賢を目指し己を発展進化させるべきである、と西郷は考える。人間は小さく縮こまってはいけない。
国家の役割もまた国民がのびのびと自由に安心して生活できるようにしなければならない。そして、一人ひとりの国民が人間として成長できるような国家でなければならない。それが国家の果たすべき仕事であると西郷は考えている。
しかし、実際には為政者は国民を統制しやすいように、国家を運営しやすいようにと安易な方向に流され、国家のあるべき本来の姿から遠ざかっていく。
現代でも、統制が行き過ぎるあまり、国民が萎縮し、縮こまって小さな人間となり、人ではなく動物に近い生かし方をしている国がある。とても国家の責務を果たしているとはいいがたい。
多少の差はあるが、為政者はおおよそ国家本来の仕事よりは、国民をコントロールしやすい方法を、また統制しやすい方法を取り入れるものである。このため、国民は賢すぎず適度に愚かであった方がよいと、為政者は悪魔的願望を持つ。二十一世紀の現在でもよほど高度な民主主義国家でないかぎり、為政者の心の底にはこの我欲という悪魔的願望が存在することは否めない。
大久保はビスマルクを尊敬し「大先生」と呼び、ビスマルクの政治手法である独裁専制主義を明治初期の国家体制に取り入れた。毛沢東は己を秦の始皇帝や漢の高祖劉邦と比すほどの野心家であった。広大な中国とその民衆を統制するために取り入れたのが共産主義という手法であった。また、ヒットラーもビスマルクの独裁専制に倣ったという。
西郷に言わせたら、為政者がどうであろうと大きな問題ではない。問題なのはその国の一人ひとりの国民や民衆の志が低く小さいことである。志が低く小さければ、その分弱く小さい人間が多くなる。弱く小さな人間は、政治家や力のある者を頼ったり当てにしたりするようになる。大きく高い志を持ち己を強くしようとは思わない。その多くは己を庶民・一般大衆と任じ、そこに安住してしまう。
庶民の中にあって地位や権力はなくとも、道を行い志を高く持ち己を強く大きくすべきであると西郷は考える。他人に頼らず人を当てにしない。己自身を人間として成長させようとする。その志をどこまでも高く持ち
「道義においては死すとも可なり」
というほどの覚悟をもって自分を強く大きくする。庶民の多くの人がこのようであったら為政者の善しあしは問題でなくなる。
仮に道義が行われていない社会であったり、為政者が道義に反していたりしたら、正したり改善させたりすることが「道を行う者」にはできる。これを行うことも道を行うということに含まれる。
庶民の中に「道を行う者」がだんだん増えてくると、為政者は仕事がやりにくくてしょうがないだろう。中途半端な政治家は枕を高くしておちおち眠ってはおれないだろう。
しかし、本来庶民はこうあるべきである。西郷が私学校をつくったのは、郷里鹿児島において一人でも多く「道を行う」庶民を育成することであったのではないだろうか。
文字の数は少ないが「私学校綱領」には西郷のそんな強い思いを感じる。