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2024年10月号エール 早川幹夫×成澤郁夫氏

2024年10月号エール 早川幹夫×成澤郁夫氏

2024年10月号エール 早川幹夫×成澤郁夫氏

全文掲載

秋の道義主義対談

山形県と西郷隆盛を結ぶ南洲遺訓が示すもの

日本道義主義の会も西郷党を立ち上げ、国政に参加することを模索しています。今回は元山形大学学長であった成澤郁夫さんをお招きして、山形と鹿児島の西郷隆盛を結ぶ縁について語り合いました。

成澤郁夫
1939年山形県上山市生まれ。秋田高校から東北大学工学部に進み、卒業後は倉敷レーヨン(現・クラレ)入社。その後山形大学助手・講師・助教授を経て81年教授に。工学部長を経て98年学長に就任するも入試の判定ミス問題で2001年引責辞任。
02年から山形県企業振興公社プロジェクトマネージャーとして県内中小企業・ベンチャー企業などの技術指導に活躍。20年後の今年、84歳で退任。専門は材料強度学。現在は栃木県那須に在住。

早川幹夫
日本道義主義の会会長。1948年鹿児島県奄美大島生まれ。拓殖大学卒。琉球大学文部事務官に就職。その後沖縄・東京で人材派遣会社を起業し、現在に至る。西郷隆盛の生き方に感銘を受け、混迷する現在の世界の政治と経済に道義主義を唱える。著書に「一箇の大丈夫 西郷吉之助」「道義国家を目指した西郷吉之助」「始末に困る人 西郷吉之助」などがある。

西郷隆盛の寛大な処置に感動した庄内藩の人々

早川幹夫

 今日は山形大学の元学長の成澤さんとお話ができることを楽しみにしていました。山形県と道義の会とのつながりを感じているからです。西郷隆盛を祀る南洲神社が山形県庄内地方にあり、南洲翁遺訓が伝わっていますね。

成澤郁夫

山形県は4つの藩からできていて、内陸地方の米沢藩は、上杉鷹山という名君がいました。この方の文化的な影響は米沢はじめ内陸に多いんです。峠を越えて日本海側に行くと庄内地方ですが、今もそれぞれ文化が違うと言われています。
 私の生まれは内陸の山形市に近い上山ですが、国鉄で働いていた父の転勤で、秋田で育ちました。山形大学に勤務していた時は庄内地域に南洲翁遺訓とか南洲会館があるのは知っていました。それが鹿児島の西郷隆盛と深い関係があることはその時は知らず後になって知りました。

早川幹夫

私は学生時代に西郷隆盛に触れました。それ以前は江戸城無血開城とか西南戦争の西郷しか知らなかったのですが、病気になったときに、林房雄の『西郷隆盛』を読み、その本で私が育った奄美に西郷隆盛がいたことを知り入り込みました。

後に山形の庄内藩の人々が遺訓集を作ったのを知りました。西郷隆盛自身は自分の意見や考えを残さなかったんです。幕末までの西郷隆盛の自筆が発見されているけれど、維新後は鹿児島に隠棲したりと、よくわかっていません。作家の海音寺潮五郎はこのままでは西郷隆盛が後世に誤って伝えられると資料を駆使して伝記を書き上げた。しかし、幕末まで書いたところで海音寺は亡くなりました。
 それ以降の西郷隆盛がおかしく伝わると思い、私が60歳になってから隆盛のことを書きました。

 庄内藩の人々が書いた遺訓集を読むと西郷隆盛という男は幅が結構ある。そして、分かろうとしなければ分からない人だなと思いました。西郷の有名な言葉「敬天愛人」は世界中を包み込める思想です。宇宙の目から見ると、白人だろうが黒人だろうが人種の区別はない。天が、我と
彼を区別しないのであれば、私も我と彼を区別するべきではない。
 薩摩藩は官軍として庄内藩を攻め、城を開け渡たさせたわけですが、西郷隆盛はどっちが勝った方か分からない寛大な処分をした。それに感激した庄内藩家老の菅実秀以下藩主も含めて、鹿児島に留学しました。我と彼を区別しない、憎しみを加えないという考え方を学んだんだと思います。

成澤郁夫

歴史は不思議なものですね。
南洲翁遺訓の発行会があって、それを山形県の庄内で大事に継承されているというのは、非常にびっくりする話ですね。

早川幹夫

庄内藩がなかったら、西郷隆盛の像はアバウトなまま。猪突猛進で、情にもろい、政治的発想もない、武士とは対象的な感じで今も見られていたと思います。庄内藩の若い人たちが鹿児島に留学して、西郷隆盛の話を聞き取りしたものを集めて、編纂したのが南洲翁遺訓です。西郷隆盛は書簡や想い、思想を書きませんでした。自分をひけらかすような、自分が偉かったというようなことを一切表現しなかった。だから写真も撮らなかったのかなと感じます。

成澤郁夫

遺訓集があったからこそ、西郷隆盛が偉大な先人だと分かったわけですね。

早川幹夫

庄内の人は純粋な気持ちから、鹿児島に行って、西郷隆盛がどういう人か見たい、教えを乞おうとしたから吸収できたんだと思います。

愛国心の前に愛郷心が大事ではないか

成澤郁夫

米沢では鷹山公は勤倹節約の鏡みたいな形でいわれていて、鷹山公の考え方が染み渡っているわけですが、庄内藩の方にはそういう考え方はありません。最後まで頑張ったけど官軍に負け、西郷さんに寛大な処置をしてもらったことに対する素直な感謝の念があったから、70人もが鹿児島に行ったんだと思います。
 愛国心も大事だし、日本の全体を考えることも大事だけど、郷土の歴史を学ぶ機会がありません。庄内でも西郷さんの話は多く出ない。米沢でも鷹山公の名前は知っているけど、どういうことをしたかというのは分からない。ですから愛国心の前に愛郷心がないといけない。郷里の歴史
を知らないと、青年になって、東京に出て、よほどのことがないと故郷に帰らない。いまは愛郷心教育が欠けているのではないかと思います。
 東北では700以上の地方自治体が将来は消滅すると言われています。結婚して子ども産んで家庭を作るという生活の基盤は産業がないとできませんが、それでも今の状況はひどすぎます。

早川幹夫

交通手段や通信手段が発達しているのですから地方を独立させるような国の思い切った政策があってもいいかなと思います。

成澤郁夫

地方を生かすにはどうしたらいいか。一時は道州制まで行きましたが立ち消えになって、今は地方の予算も権力もどんどん減ってきています。やっぱり一番は少子高齢化問題。地方の人口が減っています。

 しかし、日本の人口は今みたいに1億3千万人ぐらいいないとダメなのか。人口が減れば個人消費や働き手が少なくなるので、経済成長のためには人口をどんどん増やせという考え方ですが、終戦後の人口は約8千万。その人口で今の生活や文化レベルや経済が維持できないか。そう
いうところを議論しないと。

 東京は一番出生率が低く、人口増は社会的な流入しかない。その場しのぎの貼り薬のような公約を少しずつやっても今は出生率の上昇は難しい。教育費の無償化といったって、その前に結婚しなくちゃいけない。社会的にそういう状況になってないですから、難しいなら8千万人で日
本が維持できるか方法をシミュレーションした方がいいと思います。もう少し地域に分権して、金を渡して、中央の政府が小さくなれば少子化も含めて自分たちの問題として解決策を考えることができますね。イギリスやデンマークも小さな国ですが、その中できちっとやっています。
ある程度幸せなら、人口が減ってもいいという議論もあるべきです。

早川幹夫

江戸時代の人口は3500万人で貿易がゼロ。それでみんな食べていたわけですからね。

日本の良さを認識し、外国の人々と同じ土俵で戦わない

成澤郁夫

今の生活レベルが維持できないから人口を増やさなければならないのか、という議論をしなくてはいけない。愛郷精神、地域主義で、日常生活に関わる国防と防衛と外交以外は、地方ブロックで決められる権限と予算があるのが大事だと思います。

早川幹夫

きちっとした教育、足るを知るという意識を持って過剰な欲望は出さず、大切なものはきちっと大切にする。その意識に改変したら8千万人ぐらいでいいと思いますね。

成澤郁夫

日本は常任安保理事国になる必要は本当にあるのか。
敗戦国扱いのままですが、その中で経済が何番目だから非常に重要な国ですよと言われる必要があるのか。
 若い時にアメリカで生活して、仕事をして、お金もある人が、今になってから日本に帰りたいという希望者が増えている。それは日本を愛する心というよりもアメリカより治安がいい、物価が安いという日本の良い面がたくさんあって、アメリカ人でさえも日本に移住したいという話もある。

早川幹夫

自販機が外にあっても盗られないし、荷物を置いても盗られない。
日本の文化や精神性の良さに自信を持つべきだと思います。

成澤郁夫

人口が縮小しても、日本が保たれて経済が成り立つのであれば、GDPが前年より増えなければ負けという話ではないと思います。

早川幹夫

同じ土俵で勝負しない。日本人は日本人の持っている精神性の立場で、アングロサクソン系の土俵で勝負する必要は無いと思います。8千万人くらいで教育も行き届き、充実した生活ができる。有意義な人生を送れる。発想を切り替えるのもいいですね。

成澤郁夫

まだそういう議論をしたことなく、減るのが大変だという議論ばかりです。8千万人になった場合、戦後からの産業構造が変わってしまいます。第一次産業といわれる農業や漁業。農業の平均的な担い手は80歳くらいでしょう。日本の食料自給率は40%もない。

早川幹夫

たとえば農家の人が年収一千万円とか二千万円得られる仕組みを作って、結婚相手は畑作業とか嫌がることをしなくても、外国人労働者やAI、株式会社化という仕組みを作れないかな。

成澤郁夫

そうしないと日本の農業は生き残れないでしょう。若い人に自然を相手にする仕事は魅力があると思ってもらえるには、やはり収入の問題。一人でやるのではなくて事業化し、会社にする。今は法律とか規則で縛りがあって難しいですが。

早川幹夫

日本の農作物は品質がいいですから、ヨーロッパや中国など色々な国に輸出できるように考えてもらいたい。若い人がはつらつと農業をして年収も多いと、都会で年収五百万円以下より地方で農業して年収一千万の方がいい。株式会社や合同会社にして、結婚して子どもを育てる環境ができる。そしたら地方が活性化する気がします。最初は国が補助金を出してもいいし、農地改革ではないけれど日本の国土を甦えらせる思い切った発想ができればいいですね。

学長を退任後山形の地域貢献に20年以上

成澤郁夫

それを霞ヶ関のテーブルの上で計画を練っても難しいと思うんです。県の方が農作物は何を得意にして何を作っているか分かっている。
お金を地域に出すシステムを作り上げればいいです。
 家内が庭いじりが好きで、その後を引き継いだのですが、体が動きません。そういう意味で歳をとってから農業も大変だなと思います。
 最近は歴史の勉強も色々やってます。人間はどういう風にしてどこから発生したかという、人類史という非常に古いところの勉強です。元から興味はあったんですが、若いときは専門の方が忙しいし研究に時間が取られ手がつきませんでした。
 山形大学学長をやめた時に、山形県から手伝っていただけないかと声がかかりました。本来の工学の研究ではないですが、県の中小企業の活性化政策に力を入れているので、それを具体的に手伝っていただけないかということでした。現場に出て中小企業の社長さんとも親しくなり、非常に勉強させていただいたのと、私の専門の技術的なアドバイスをして活かしていただきました。
 大学にいた時の基礎的な研究が実践の場に活かされるチャンスを与えられ、今年の3月まで結局20年以上やってました。研究してきた仕事を今度は中小企業を応援し、地域貢献できました。インプットからアウトプットです。
 ISOというヨーロッパ中心の国際標準化という規格があるのですが、そこのある部門の日本代表で議長になってくれといわれたり、辞任した後の方が結果的に外国行きが多くなりました。
 今から20年くらい前に慶應大学から先端生命研究所を鶴岡に招いて、生命の基礎になるような人工のタンパク質の研究をしています。研究所の設立を年に4億円ずつ、8億円を山形県と鶴岡市で助成しますということでした。県の公的な資金なので、5年ごとに見直し、助成に値するかどうかを評価する。

タンパク質は毎日何トンも合成できるようになりました。それを糸にすることに苦労しましたが、絹糸よりも強度に優れる、大きなビジネスになりかけています。
 私は大学卒業後クラレで働いていましたので糸はよく見ていたんです。それをアドバイスに含め、今タイに原料工場を作って、日本に持ってきて糸にする話で進んでいます。その研究の応用でがんの方にもつなげています。

早川幹夫

山形大学の元学長だった成澤さんと南洲遺訓のこと、70名も鹿児島に行ったことを
お話しできました。私は20名前後かと思っていましたが、そんなに行ったのかと。山形と西郷隆盛の縁を改めて認識することができました。
 今度鹿児島に行きます。鹿児島には地域政党で薩摩志士の会というのがあります。私たちも地域政党を立ち上げることを考えています。今はウクライナやロシア、ハマスやイスラエル、イランの大統領が死んだり、色んな意味で誰かが世界に一石を投じないといけません。それは道義主義の会で、会合を重ねるだけではなくて、現実にチャレンジするのが必要だと思っています。

成澤郁夫

今の国の選挙制度を考えると新しい政党は小選挙区の問題もあって非常に大変な道のりですね。

早川幹夫

これから鹿児島で会うのは薩摩志士の会の福沢さん。海上保安庁が監視する中、船で近くまで行って泳いで尖閣諸島の魚釣島に渡り、慰霊祭をやってきた人です。そういった行動ができる人がいるので、そういう人たちに声をかけようかと思います。
 西郷隆夫という西郷隆盛のひ孫や西郷家の5代目・西郷隆太郎がいて、40代で若い。
環境さえ作ったら、やってみようとなる。その環境づくりをやってみようと思います。
 鹿児島の人から山形の庄内南洲会の関係者の情報を仕入れて、庄内にも行ってみようかなと思っています。

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