西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p048-第五章_06

第五章 西郷と政治

西郷と大久保

二人は薩摩藩(鹿児島)の英傑として並び称され、よく人物を比較され評されている。
政治には、政権を担うトップの個性が強く反映される。平清盛と源頼朝との個性の違い。信長、秀吉、家康の個性の違い。現代日本の首相を例にとっても田中、三木、福田の違い。最近の小泉、安部、福田の個性の違いがある。そしてその違いが政治に蛸  表れてくる。個性が強ければ強いほどその表れ方は顕著で、また個性が強い人ほどその個性を出したがる。
西郷と大久保においても討幕という大目的遂行の間は、個性の違いはあたかもピッチャーとキャッチャーのようにお互いの役割を果たすということで、それはプラスの方向に作用した。しかし、新国家建設の方法論においては大きく個性の違いが表れた。西郷は時間をかけて道義国家の建設を目標としていた。本当は建設したかったのであろうが、何分新政府は薩長土肥の寄合所帯であり、それぞれが勢力争いを演じていた。そんな中で自己の目標を達成するには権力闘争は避けて通れないことになる。そうすれば成立まもない新政府での内紛となり、諸外国につけこまれるスキを与えかねない。そこで西郷は「志を得れば民とこれに由り、志を得ざれば独りその道を行う」というスタンスでいた。

自分より仕事が出来る立派な人が現れたら、自分の職をその人に直ちに譲る人などいない。誰がなんと言おうと、せっかく手に入れた地位は死んでも離したくないのが本音であろう。そういう考えを持つのは「西郷さん、あなただけですよ」と言いたい。
大久保のことをあまり言いたくはないが、秀吉や家康にしてもその大部分の思いは自分と一族のための政治であり、権力欲と支配欲から逃れるのは難しいと言っておきたい。大久保も欧米列強から日本の侵食を防ぐのは、欧米の進歩した科学技術を受け入れ産業を興し、欧米に追いつくことであるとしたのは正しい。
しかし、それは西郷のように「自分の職を譲る」というスタンスではなく、自分が思っていることを自分の力で行うというスタンスである。自分が思っていることを自分の力でとなると少なからず「自分のために」「自分のやりやすいように」が入ってくる。なぜ西郷が「自分より仕事ができる立派な人が現れたら、その人に自分の職を直ちに譲るほどでなくてはいけない」と考えるのであろうか。

究極は国や国民のことを考え、それをよりよくするためである。自分よりよい人に担当させた方がよくなるのは当たり前である。スーパーなど小売業では、お客さまのためが大前提である。そしてお客様の苦情には敏感である。政治をサービス業とみなし国民を一般消費者としたら、お客様(国民)の満足のためが普通となる。「自分の職を譲る」という西郷の考えは、自分よりできる人にやってもらった方が、それが国や雌国民のためになることだからである。それ以外の何ものでもない。大久保の権力欲は相当強かったと思われる。それは西郷へのライバル心からであり、嫉妬心(ジェラシー)からでもあったと思われる。西郷は、当代一の英明といわれた藩主斉彬に見い出され、いきなり政治の表舞台で活躍し、大久保ら同志の羨望の的となった。大久保は斉彬亡き後、藩を支配するのは久光であると見て、久光に近づき取り入り少しずつ権力の中枢に入っていった。久光の政治手法である統制主義を大久保も久光に近づくにつれ、自分のものとして学んでいった。幕末に薩摩藩士が薩摩藩士を上意で打ちに行くという寺田屋事件は、大久保、久光の統制主義の事件である。大久保は久光を動かし利用し藩内における権力基盤を確立し、併せて岩倉具視と図り朝廷内における信頼も確保していった。幕末も押し迫ると、西郷は前戦の司令官としての役割を果たし、大久保は岩倉とともに朝廷内部の工作や宮廷政治を主な仕事とした。

討幕が案外スムーズに行き、新政府が樹立された。大久保は盟友として朝廷をリードすることができる岩倉を得ている。新政府で自らの経綸を発揮したかったであろう。
表舞台に出て何よりも自分が西郷以上の存在であることを証明したかったであろう。
大久保の性格は統制好きで統制主義である。後に自ら内務省を設立しその長官である内務卿になったとき、大久保が省内にいるかいないかは省内の静かさでわかったという。いるときは、水を打ったように静まりかえっていたという。

ある意味、人の良い西郷は何かと大久保に利用された。廃藩置県や留守政府を任されたことがそうである。西郷は政府内の権力闘争にはあきあきしていた。鹿児島に引き籠もっていたかった。しかし、これをやってくれ、あれをやってくれと無理矢理引っ張り出された。留守政府を二年近く守っていたらいたで、約束を破って、あれをしたこれをしたと、すでに決定していた遣韓使節論も完全にひっくり返された。明治六年の政変いわゆる征韓論争に限って言えば、大久保が権謀術数により西郷の追い落としを謀った事件である。

根底には大久保の西郷への嫉妬がある。ただでさえ人望のある西郷にこれ以上権力や人望が集中すれば、政権の主役の座を奪われてしまうという大久保の危機感があった。要は自分の望む政治を自分がやりやすいようにしたかったのである。大久保は国家と国民を統制しやすいフランス流の警察国家を目指した。明治六年十月の政変で西郷一派が下野したあと一カ月後には、大久保は内務省を自ら新設しその長となった。内務省には大蔵・司法。工部各省から警察権や地方行政に関する権限(県知事や警察の幹部の任免権が内務卿にあった)、殖産興業、通信交通、土木といった広範な権限が移った。また大久保は警察力の充実をはかるため、川路利良をフランスに派遣し警察組織を学ばせた。さらに、それまで司法省に属していた警察機構を整備独立させ警視庁を設立し、その初代警視総監に川路利良を任命した。これにより、内務卿・大久保のもとには強大な権力が集中した。

その後の日本は良いも悪いも、大久保の個性である威厳・重厚・堅実を尊ぶ官僚的国家を形成し、それは戦前まで続いた。大久保は久光を動かし利用できても斉彬は動かすことはできない。これもまた事実である。斉彬もまた父斉興を無理矢理隠居させ藩主になったからこそ、自己の政策を遂行できた。
政治は人が行う以上、その個性が政治に表れるのはいたしかたないことである。そうではあるが、大げさに言えば、国の命運を政治家に委ねることになるのである。良い悪いは別として、家康の好みが三百六十年続いたように、大久保の好みが戦前まで続いたように、いったん敷かれたレールは大変革でもないかぎり変えようがない。これは世界の歴史が証明している。
西郷はいってみれば反逆児である。久光(藩)に楯突き罪人となった。幕府(将軍)に楯突き討幕を果たした。明治政府(天皇)に結果としては楯突き、西南戦争を起こし敗れ賊軍の将となった。大久保は権力の側から落ちたことはなく、いわば権力に従順である。大久保は久光を動かし利用することができたが、斉彬を動かすことはできない。これは人間の持つ力量の違いである。西郷がよくて大久保が悪いというのではない。我々は政治をなす者に良い悪いを含めて国の命運を委ねているということを自覚しておくべきである。

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