聖賢にならんと欲する志
金持ちになりたい、物質的に豊かになりたい、安定した生活をしたい。これらは多くの人が望むことである。
『手抄言志録』四十七項に「人は皆身の安否を問ふことを知つて、而かも心の安否を問ふことを知らず」(人は皆身体のやすらかであるかどうかを問うことを知っているが、心のやすらかかどうかを問うことを知らない)という言葉がある。
二〇〇九年五月二十九日付の琉球新報朝刊に「今年に入って自殺者が県内で四十人を超える異常事態になっている」を伝える記事が載っていた。暖かくて、のんびりしていて、スローライフなイメージがある沖縄での自殺者は考えにくいことである。
日本国内では交通事故の死者より多い三万人以上の自殺者が毎年出ている。「人の命は地球よりも重い」という言葉もあるが、戦争や紛争、貧困、飢餓などが頻発し、実に軽く扱われている。人間の尊厳とは一体なんであり、どこにあるのだろうか。
多くの人は病気や怪我をしないように身体(からだ)を心配し用心もするが、自分の心が弱くなってはいないか、傷ついてはいないか、また正しい判断をしているかどうかなど、身体を心配するほどには心配したり気をつけたりしない。「病は気から」という言葉もあるように、人間は心の持ちようによって身体の状態は大きく左右されてしまう。
身体を乗用車に例えるなら心は運転手である。人生という山あり谷ありの変化に富んだ道を走るとき、しっかりした運転技術を身につけ安全運転をするという意識が必要になる。人生という道を走るためには、まずこれらのことを身につけることが最初であり肝心なことである。若いときに人生の正しい生き方を学ぶ。そして、学んだことが本当に正しいかどうか自身の行動で検証する。そうすることで、より正しい誤りのない生き方ができることになる。
『手抄言志録』十三項に「聖人は強健にして病無き人の如く、賢人は摂生して病を慎む人の如く、常人は虚弱にして病多き人の如し」(聖人は力強く健康で、病のない人のようであり、賢人は、自ら摂生して病にかからないように気をつけている人のようであり、常人は、体が弱く、よく病気をする人のようである)とある。これらの『手抄言志録』から西郷の生き方が見える。西郷は立身出世しようとか、地位や名誉やお金を得ることを目的として生きようとはしていない。それよりも、迷いのない堂々たる人生を生き、そして己を高めることを第一としている。それでは、どういう訓練をすべきかというと、答えは単純明快である。
人はさまざまな環境の中で生きている。波間を漂う小舟のように家族、親戚、職場、友人、知人、そのほかいろいろな人間の影響を受け、そして押し寄せる幸不幸の波に一喜一憂して生きる。「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うるなかれ、只だ一燈を頼め」(暗い夜路を行く場合、一張の提灯をさげて行くならば、如何に暗くとも心配するな。ただその一つの提灯を頼んで行けばよいのだ)と『手抄言志録』五十四項にある。暗夜を何も持たないで手探りで危なかっしく進むのではなく、燈で行く先を照らして進んでいく。
同様に人生の行路もまた迷いなく歩めるように「人の進むべき正しい道」を知り、己という一燈が行く先を明るく照らせるように自身の力量を高める。人間はもともと偉大な存在である。若いときに人間を探求し、人生を学び大いなる志を持つべきである。
そして自己(一燈)を強くたくましくすべきである。そうすればまさに暗夜を憂うことなどどこにもない。
西郷も己を強く大きくしようとした。そして人間の強さと大きさと高さを求めたのが『遺訓』にある「聖賢にならんと欲する志」である。人は大きくなろうとすれば、どこまでも大きく偉大になっていくが、腐らして小さくなればどこまでも小さくなって、しまいには動物と変わらなくなってしまう。西郷は「人間は人間であることにもっと自信を持て」と言う。
過去の歴史上の人物や英雄豪傑は皆あなたと同じである。なんらあなたと変わらない同じ人間であり、差があるはずがない。だから、志を高く持って聖賢になろうとすべきである。この志は人間が人間である以上、人間の根本にある志である。この志は避けて通れないものであり、誰しも一身を賭して挑戦すべき志であると西郷は説く。
次の『遺訓』第三十六項は、西郷の生き方の中で一番重要な部分ではないだろうか。西郷が何を目指して生きてきたのか。また人間は本来何を目標とすべきなのか。それを己の行動で証明して見せてやる、とでも言いそうな西郷の強い思いと天地を破
るほどの気魄を感じる言葉で述べられている。
「聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚も企て及ばぬと云ふ様なる心ならば、戦に臨みて逃ぐるより猶卑怯なり。朱子も白刃を見て逃ぐる者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を読み、其の処分せられたる心を身に体し心に験する修業致さず、唯か様の言か様の事と云ふのみを知りたりとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論ずるとも、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空しく読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち合へと申されし時逃ぐるより外有る間敷也」
孔子や孟子といった人間としての高さを求めた聖人賢人になろうとする志がない。
また、古(いにしえ)の英雄豪傑である歴史上の人物の業績や行動を見て、自分にはとても彼らのようなことはできないと思ってしまう。そのような心であってはいけない。それは戦いの場に臨んで逃げ出す以上に卑怯なことと言わねばならない。彼らは何ら特別の存在ではない。あなたと同じ人間ではないか。人に大差はない。己を卑下してはいけない。
西郷にしてみれば、己を卑下し人間の偉大な可能性を見限ることは、敵前逃亡よりなお卑怯なことだと言いたいのである。薩摩武士の教育を受けた西郷は「戦に臨みて逃ぐるより猶卑怯なり」と強い口調で、人間としての成長を停止させてはならないと述べ、朱子(宋の朱子学の開祖)の言葉を例に出し、白刃(抜身の刀)を見て逃げ出し怖気づくような胆力ではとうてい真の人間の成長は望めないと言う。
それではどうしたら聖賢を志し聖賢になることができるのか。西郷はこう答える。それはまず心を無にし、先入観を捨てて誠意をもって聖賢の書、たとえば『論語』『孟子』を読み、彼ら聖賢の考えや行動が自分自身にできるか試みる。そして、己にどの程度できてどの程度できないか検証して、彼ら聖賢の行動ができるように修業する。
実際に自身では行動しないで、孔子の論はこうだ、孟子はあのようだと言っているのでは、文字の上でよく知っているだけであり何の役にも立たない。それを西郷は剣術の傍観者にたとえ、「万一、立ち合えと言われたら逃げるよりほかはないではないか」と述べている。「事上練磨」とあるように、日常の生活の中で聖賢の言行を実験し、己自身で剣の技量を磨くように体得しておかなければ「いざ真剣勝負」というとき斬られてしまう。西郷は中途半端な聖賢はかえって有害であると考える。知識があるだけに人は惑わされやすく、その行為を善と思ってしまう。どんなに高名な学者が聖賢の道を論じても、実際の言行が聖賢の道でなければ、口頭聖賢(口先だけの聖賢)である。
西郷は人々が自分自身を高めることにもっと真剣に取り組んでほしいと願っている。それは人間であるための義務であるとさえ考えている。