時代や環境に左右されないで生きる
多くの人が西郷に魅了されるのは、その堂々とした生き方ゆえといえよう。勝海舟は西郷を評して大胆識、大誠意、大度広量の人としている。体格雄偉(身長一七九センチ、体重一〇〇キロ前後)にして、眉太く目は大きく眼光炯炯として、見るからに英雄の風貌をしていた。そんな西郷が自己の内面をみがきにみがいて一箇の大丈夫として己をつくりあげたのである。接する人は魅了されないはずはなく、影響を受けないはずがなかった。
その西郷がどんな人間であったか、またどんな人間を目指していたかが、次の『遺訓』三十項によく表れている。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れ共、个様の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付、孟子に『天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず』
と云ひしは、今仰せられし如き人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也」
命もいらない。生命を秤(はかり)にかけ脅しても動かすことができない。名声も名誉も官位も金もいらない。脅し(ブラフ)も通じない。大臣の地位や勲章栄誉を餌にしても釣ることができない。大金を与えてもころばすことができない。仮にこのような国会議員がいたら、どう処遇してよいか分からないだろう。西郷の「仕末に困る人」とは、このような意味合いの人である。人が失いたくない最大のもの、命でさえいらないと言い切る人。
人が求めてやまない名声・名誉や官位・地位や、そして生きていくうえで命の次に大切な金もいらない人である。常人と違う価値基準である。「しかしこういう仕末に困る人でなければ困難を共にして国家の大事業は成し遂げられない」と西郷は指摘する。西郷自身、倒幕という日本史における大事業を「仕末に困る人」として行ったのである。またこのような人は普通の人と価値基準が異なるため、一般の人の目には、少し変った人のように見えるだけで、本当に「仕末に困る人」かどうか見抜けない。
西郷から「仕末に困る人」についての話を聞いていた人が「『孟子』の中に『天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず』というのがありますが今、西郷さんがおっしゃられた仕末に困る人とは、このような人物のことを言っているのでしょうか」と尋ねた。西郷は「いかにもそのとおりだ。真に道を行っている大丈夫でなければ、常日ごろこのような精神で行動できないものである」と答えた。
「命もいらず名もいらず」とくると、戦前の右翼や軍部の一部に信奉された西郷像が浮かぶであろう。極端な言葉であるため、誤解されやすく曲解されやすかった。西郷はどちらかといえば左翼的でさえある。本心は革命家と言ってよいだろう。西郷の事跡や『遺訓』を研究すれば分かる。吉田松陰も似ている。国難に身を挺したということで、戦前は西郷同様に祭りあげられた。松陰の書『講孟余話』などを読めば、純正で愛情あふれる人であったことが分かる。二人とも孟子や孔子的人間なのである。
聖賢の書を学び聖賢の道を究めようとするとき、幕末動乱の時代であれば動乱の時代の聖賢であり聖賢の道であらねばならない。また、太平の時代であれば、松陰も西郷も太平の時代の聖賢であったであろう。欧米列強の侵食の波が日本に押し寄せているとき、聖賢の道を志す者は今行うべき正しい道は何かを常に考えていなければならない。松陰は松陰でその環境の中で人の行うべき正しい道は何かを考え、その時々で行動したのである。その結果が下田密航であり松下村塾であった。これは西郷も同様である。松陰と環境は違うが、西郷もまた人の行うべき正しい道を求め、その道を行ってきた。西南戦争で死ぬまで一貫している。
「いま、人の行うべき正しい道は何か」を己に問い、己のなせる役目・役割を果たすのである。時代がどのようであろうと、自分の置かれている環境がどうであろうと、一切問題ではない。この道は、時代を超え人間の歴史が続くかぎり不変のものである。また、人間にとっての天地自然の道であり、人が人であるための大原則(大道)なのである。
西郷自身「富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」の訓練を若いときから行ってきた。奄美大島、沖永良部島へ島流しに遭い貧(貧乏)であり賤(沖永良部島では囲い牢の罪人)であった。明治になると、賞典禄二千石を受け、正三位の位階をさずかり参議・陸軍大将となり富(とみ)と貴(たっとさ・貴人の地位)を得ていた。
しかし、貧賤が西郷の心を自暴自棄にしたり卑屈にしたり、心の中まで貧しくいやしくすることはできなかった。また、富貴が西郷の心をおごりたかぶらせ傲慢にすることも、他人を見下し貴顕をひけらかす人間に変えることもできなかった。どんな威力や武力をもってしても、西郷の志を屈服させられなかった。それは、島津久光の武力をしても天皇の権威をしても同様であった。
西郷が考える人間存在の基準は、道義(人の行うべき正しい道)である。人はこの道を行うことで、自由意志をもつ人間が天地自然と一体になれると信じている。富貴貧賤は、人が身に着けるきらびやかな衣服や粗末な衣服のようなものであって、自分自身ではない、人に付属するものでしかない。このように道を行うということは、着た衣服によって何も自分自身が変っていないように、富貴貧賤によって己が左右されることがあってはならない。
西郷の言う「大丈夫」とは、これに「威武も屈することあたわず」が加わった者である。そして、大丈夫の出処進退が「志を得れば民と之に由り、志を得ざれは独り其道を行う」になる。西郷はこういう人間の修業をしていたから、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るもの也」の言葉が自然と口から出たのであろう。