第一章 西郷隆盛
10 山形荘内藩
西郷はどのような思想を持ち、どのような物事のとらえ方をして、何を基準として生きたのか。どういった修業をしたのか。また「道」とはどういうものかなど、西郷の根幹にかかわることを読み解くには『西郷南洲遺訓』はどうしても必要なものである。仮に遺訓集が存在しなかったら「敬天愛人」を基にした西郷の思想や哲学も分からずじまいで、悲劇の猪武者であり、情に左右され政治思想を持たぬ武将として歴史に名をとどめたであろう。また、遺訓集は西郷が自身で書いたものでないため、一級資料と見なされず現在でも誤解されており、今までとあまり大差のない評価となっている。
遺訓集を通して西郷をみると、一般に歴史の教科書・辞書などで評価されている西郷とは別の西郷像が見えてくる。『大西郷全集』に収録されている「与人役大体」は西郷自筆のものである。これをもとに遺訓集をみると、中で述べられている西郷の言葉は本物と確信するのである。遺訓集は西郷の意志とは全く別に西郷の死後、山形荘内藩士の手によって編さんされ世の中に現れた。『西郷南洲翁遺訓』(財団法人荘内南洲会発刊)に掲載された「南洲翁遺訓の由来」がいきさつを説明しているので、そのまま紹介する。
南洲翁遺訓の由来
(財)荘内南洲会
長谷川 信夫
「西郷先生の眞精神をものの見事に表現する「南洲翁遺訓」については、意外と知られておらない。この際、発刊の意義と由来について極めて簡明に申し上げることとする。出発はやはり西郷先生と荘内との出会いにはじまる。戊辰戦争での官軍と賊軍の関係、そして帰順降伏した荘内藩が厳しい処分を覚悟したにもかかわらず、案に相違して極めて寛大なものであった。この処置のすべてが西郷先生の指導によるものであることがわかり、荘内の人々は西郷先生の大徳に心から敬慕することとなる。明治三年十一月には酒井忠篤公は士族七十余名と共に遠路鹿児島に赴き、約半年間西郷先生を始めとして篠原國幹、桐野利秋、村田新八等の教導を受けることになる。
荘内の俊傑の士、菅実秀(臥牛)翁が始めて西郷先生と面会したのは明治四年四月頃であった。荘内の人々は、先生が東京に居られる時は勿論、鹿児島に引き上げた後は、遠く鹿児島まで一ヶ月余の日時を費して教を受けに行っている。教を受けた人々は西郷先生の教を丹念に筆記して荘内に帰り、それを待っていた人々は、またそれを書写して、自分の心のより所として学んだものであった。これ等の書写本が後日「南洲翁遺訓」編纂の資料となった。明治十年九月二十四日朝、西郷先生が城山の下、岩崎谷で没せられたことを知った荘内の人達の悲しみは言語に絶するものであった。明治二十二年二月十一日、明治天皇は特旨を以って、西郷先生の賊名をお除きになり、且つ正三位の御贈位があられた。歓喜にわいた荘内の人々が、今こそ西郷先生の偉大な仁徳と、その眞精神を天下に示し後世に伝える時と考え、その悲願を果す時まさに到来せりとして着手したのが「南洲翁遺訓」の刊行であった。
菅実秀翁は、赤沢源也(経言)をして、西郷先生に親しく学んだ教を収録篇纂させ、菅翁もいく度もそれを添削修正して「南洲翁遺訓」を刊行したのは明治二十三年一月である。「南洲翁遺訓」が刊行されると、酒井忠篤公は、明治二十三年四月に、伊藤孝継、田口正次を東京を中心に、三矢藤太郎、朝岡良高は中国地方から九州に、富田利騰、石川静正は北陸から北海道にと、全国の心ある人々に配布されたのである。文字通り風呂敷を背負って、全国を行脚しての弘布であった。まことに「南洲翁遺訓」は西郷先生と荘内の先人達との魂の交りの結晶である」