西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p011-第一章_09

道義国家を目指した西郷吉之助

第一章  西郷隆盛

9 私学校綱領

西郷は征韓論争で下野を決意したとき、もう二度と政権に戻ることはあるまいと思った。「廟堂に立ちて大政を成すは天道を行うもの」(政府の中央にいて国家の政治を行うことは天道すなわち天の意思である仁愛を国民に施すことである)と西郷は考えている。素人目にもわかる策謀劇によって、いったん朝議で決定していた遣韓使節論が引っくり返されたのである。幕末の革命期ならばまだしも、新政府が樹立され日本がようやく新しい国になろうとする大切な時期に、である。

当時の最高の意思決定の場で、策謀を用いるとは西郷はあきれかえって言葉もなかった。西郷自身、人間の持つ権力欲というもののすさまじさを改めて思い知らされた。西郷が唱える道義国家は単なる理想にすぎないのであろうか。

大義名分はどうであれ、個人が持つ政権や政策の指向・構想がどうであっても、政権の座にいる以上「天の意」に添うようにしなければならない。私意を持ち込むことは西郷にとっては論外なのである。しかしながら一方ではこれが世の常の状態であろうと思った。それならば西郷は政権にとどまることはなおさらできなかった。西郷が政権にとどまれば、好むと好まざるとにかかわらず西郷派と大久保派が政権内に生まれ両派の抗争となる。

薩摩藩でも長い期間、斉彬派と久光派に分かれ報復を伴う激しい抗争を繰り返したことを西郷は若い時に見ている。幕末の革命期においてもフランスが幕府に肩入れし、イギリスは薩長に加担するといった欧米列強も巻き込んだ対立の構図があった。成立して間もない新政府内での政権抗争は、どんなことであっても避けねばならない最悪事態である。西郷は弟の従道に「これまで少しも策略をやりたること有らぬゆえ、跡はいささかも濁るまじ、それだけは見れ」と述べて鹿児島に帰った。目指す道義国家は今の明治政府では時期尚早とみたのである。郷里に戻った西郷は文字どおり「独りその道を行う」の心胸であった。

己に権力が集まらないように、あまり目立たないように独りひたすら道を行い自身の成長を期そうとしていた。しかし、西郷の後を追って篠原国幹、村田新八、桐野利秋ら大勢の薩摩士族が官を辞して鹿児島に帰って来たことで西郷は独り道を行うことはできなくなってしまった。彼らにとりまかれ何かをしなければならなかったのである。明治政権においては道義国家建設の環境にはなかったが、彼らを教育訓練することによって、道義国家の芽を郷里鹿児島に植え育てようと試みたのが私学校であった。それは西郷自ら筆を取って記した「私学校網領」に表れている。

私学校網領一、道を同し義相協ふを以て暗に聚合せり。故に此理を研究して道義におひては一身を顧みず必ず踏み行ふべき事。

一、王を尊び民を憐むは学問の本旨、然らば此天理を極め、人民の義務にのぞみては一向難に当り一同の義を立つべき事。勝海舟は著『氷川清話』の中で「こぶんの無い方が善い」と題して、次のように述べている。西郷が意図していたこととは別の方向に私学校という集団が一人で動き出し、反政府的意志を持つようになっていたのである。西郷が私学校を自身の手で組織化し細部にわたるまで目を光らし指導管理していたら、こうはならなかったであろう。西郷の意図を十分理解しているとは思えない篠原、村田、桐野ら海舟のいう子分に任せすぎたのである。いつの間にか子分の意志が全体の意志となってしまう。こういった事例は会社等の組織ではよくあることである。こぶんの無い方が善い。

「何でも人間は乾児のない方が善いのだ。見なさい。西郷も乾児のために骨を秋風に曝したではないか。おれの目で見ると、大隈も板垣も始終自分の定見をやり通すことが出来ないで、乾児に担ぎ上げられて、ほとんど身動きも出来ないではないか。およそ天下に乾児のないものは、恐らくこの勝安芳一人だらうよ。それだから、おれは、起きようが寝ようが、喋らうが、黙らうが、自由自在気随気儘だよ。李鴻章や何やと大きな奴があるんで困るが、兎も角も、伊藤さんは、日本ではエライが、しかし、侯爵様だけども、西郷なんどが生きて居たら、だいぶ笑ったであらうよ。西郷だって正雪だって、自分の仕事が成就せぬといふことは、ちゃんと知って居たのだヨ。おれも天保前後にずいぶん正雪のやうな人物に出遭ったが、この消息は、俗骨には分らない。つまり彼らには自然に権力が付き纏うて来るので、何とかしなくては堪へられないやうになるのだ。

しかし西郷は、正雪のやうには賢くない。たゞ感情が激しいので、三千の子弟の血管を沸した以上は、自分独り華族様などになって済まし込むことが出来なかったのだ。それを、小刀細工の勤王論などでもって攻撃するのは野暮の骨頂だ。賢くないとはいふものゝ、勤王論ぐらいは西郷も知って居る。だから戦争中も自分では一度も号令を掛けなかったといふではないか。おれは、前からそれを察して居たから、あの時岩倉さんが聞きに来たのに、大丈夫だ、西郷は決して野心などはない、と受け合ったり、また佐野などにも西郷の心事をくはしく説明してやったが、そのために一時にとんでもない疑ひを受けたこともあった。

しかし何にしてもあれほどな人物を、弟子のために情死にさせたのは、惜しいものだ。部下にも桐野とか、村田といふのは、なか〱俊才であった。西郷も、もしあの弟子がなかったら、あんな事はあるまいに、おれなどは弟子がないから、この通り今まで生き延びて華族様になって居るのだが、もしこれでも、西郷のやうに弟子が大勢あったら、独りでよい顔もして居られないから、何とかしてやったであらう。しかし、おれは西郷のやうに、これと情死するだけの親切はないから、何か別の手段を取るヨ。とにかく西郷の人物を知るには、西郷くらいな人物でなくてはいけない。俗物には到底分らない。あれは、政治家やお役人ではなくて、一個の高士だものを」

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