第一章 西郷隆盛
8 日朝修好条規
征韓論争は結局、一八七六(明治九)年に朝鮮政府との間で日朝修好条規を結び終結したのである。しかし、軍事力を背景に締結した不平等条約であった。一八七五(明治八)年九月に明治政府が江華島事件(※)を起こし、朝鮮に住む日本人を保護するという名目で翌一八七六(明治九)年、軍艦六隻とともに使節黒田清隆、井上馨を朝鮮へ派遣、強引に開国を迫った。幕末にペリーの砲艦外交によって徳川幕府が押しつけられた日米和親条約や日米修好通商条約と同様、朝鮮に対しては不平等である。
西郷はこの話を聞いて「日本は欧米列強と同じやり方で朝鮮を開国させた」と嘆じたという。西洋が野蛮でなければ、未開の国ほど慈愛をもととし懇々説諭して開明に導くべきである。そうしないで、「未開矇昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己を利する」行為をしていることが、西郷には野蛮だというわけである。
日本のこうした行為にアメリカは反対したが、明治政府は「貴国が日本にしたのと同じことをしただけだ」と述べ開き直った。しかし、西郷は「只弱を慢り強を恐れ候心底より起り候ものと察せられ候」と指摘。弱く勝てると踏んだ朝鮮を叩き、欧米列強に日本も強いぞというところを見せつけるために、道にはずれる行為をしたと明治政府の本質を突いている。封建社会をやっとの思いで卒業したばかりの下級武士集団が、科学技術や産業が発達している欧米に行けば、別世界を見るように圧倒されるに決まっている。吉田松陰
や高杉晋作のような胆力や識見を持っている人間は別として、大抵はコンプレックスを抱いて帰って来るだけである。
その裏返しとして弱者には強く出るという、西郷に言わせると「道義にもとる行為」をその後の日本は繰り返している。一九三一(昭和六)年満州事変の発端となった柳条湖事件や一九三七(昭和十二)年日中戦争への導火線となった盧溝橋事件の原型は、日本が策謀をもって行動した江華島事件にある。日本の歴史では、岩倉遣外使節団が明治初頭の大人数の政府高官による洋行であったことはあまり論評されない。しかし、実際はこのことが征韓論争を引き起こし、彼らが持ち帰った「対欧米という意識」が明治、大正、昭和、平成といまだに続いているように思えるのである。日本には欧米にも類をみない七百年間連綿と続いた武士の文化と精神があった。日本が主体性を持つため時間をかければ、この武士と庶民の文化や精神を融合させ新たな文化を生み出せたのではないかと思う。今からでも遅くないが、日本人は日本の良さを見出して「日本人とは何か」を持った国にしなければならない。
※江華島事件
一八七五(明治八)年九月二十日、朝鮮の江華島で守備兵と日本軍艦雲揚とが交戦した事件。明治維新後、明治政府は旧来の交隣に基づく朝鮮との関係を近代国家間の通交関係に改めようとしたが、旧慣を重んじる朝鮮との交渉は難航した。
一八七五(明治八)年四月、釜山在勤の外務小丞森山茂理事官からの、軍艦派遣による示威行動を促す上書を受け入れた外務卿寺島宗則は、海軍大輔川村純義らと協議。五月、雲揚と第二丁卯を釜山に派遣、さらに航路研究の名目で雲揚に朝鮮半島西海域の航行を命じた。九月二十日、井上良馨艦長らがボートで江華島東側水道を遡上したとき、砲台から砲撃を受けたことを口実に、雲揚も発砲し、一時間半にわたって交戦した。その帰途、雲揚は江華島の南十キロにある永宗島の要塞を急襲。上陸して建物・民家を焼き、俘
虜十六人を捕らえたほか、銃砲などを掠奪した。
事件は日本側の一方的な挑発、攻撃によるものであったが、政府は朝鮮側の不当な襲撃があったとして責任を問い、釜山の官民保護と称して軍艦を派遣した。軍事的威圧を加え、条約締結を押し付ける砲艦外交を行い、一八七六(明治九)年二月二十七日、日朝修好条規の調印に持ち込んだ。