西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p013-第一章_11

道義国家を目指した西郷吉之助

第一章  西郷隆盛

11 アーネスト・サトウと西南戦争

一八七七(明治十)年二月二日、アーネスト・サトウはイギリス公使パークスの政情視察の命を受け、西南戦争勃発直前の鹿児島に来ている。サトウは旧友のウイリスの家に宿泊し、西南戦争の直接の発端となった私学校徒による政府の火薬庫襲撃事件と西郷暗殺計画を調査した。二月五日には鹿児島県令大山網良を訪問している。

ウイリスはもともとイギリス公使館付の医師。戊辰戦争のとき鉄砲創による死傷者が多かったため、鉄砲創の治療には西洋医学による施術の方が適しているという西郷の考えから招聘した。戦後西郷との縁で鹿児島に行き、この頃は鹿児島病院と医学校の指導と運営をゆだねられていた。
この稿は荻原延壽著『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄(西南戦争)』を参考
に書いている。同書はサトウの膨大な日記の抄(抜き書き)を中心にまとめているが、サトウの日記部分は「 」で表し、著書による説明は( )に収めている。

「二月九日 今朝、大山(県令)がやってきた。いくつかの書類をウイリスに見せるためである」
「第一に、西郷(陸軍大将)、桐野(陸軍少尉)、篠原(同)の署名した手紙で、その内容は昨夜若い三田村が語ったのと同じである」
「第二に、各府県当局に宛てた大山自身の回状の写しである。その中で、大山は、江戸(東京)の警視庁に所属する多数の人間によって、公共の福祉に反する陰謀が企てられたが、それが発覚したことを通告している。そのうちの三名は云々」
「第三に、いわゆる陰謀者のリストである」
そして大山網良は次のように語った。
「西郷ら三人は四、五日以内に当地を出立するだろう。この動きがつたわるやいなや、江戸では大混乱が起きるだろう。そして役人という役人は、まちがいなく、すべて辞職するだろう」
「江戸政府の支援をうけた西郷暗殺の陰謀は本当に存在したのであって、陰謀者らが自白したのは、このことである」
前夜、三田村が語ったことは次のような内容である。
(二月八日、ウイリスが宮崎からもどり、ウイリスの家の夕食に加わった若い医師三田村敏行(三田村一の弟)からくわしい説明を聞かされるに及んで、サトウにも動乱の深刻さが納得できた。何よりもまず、これに西郷隆盛が加担していることである。西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で、大山県令に送った届書は、上京の理由として、

「今般政府へ尋問の筋これあり」と述べ、つづけて、これには「旧兵隊の者共随行、多数出立致し候」と書きそえていた。さらに若い三田村は、東京から送り込まれ、やがて鹿児島で逮捕された警視庁警部中原尚雄らの自白にもとづく、西郷暗殺計画の陰謀を暴露した)
二月十日にはサトウは次の情報を得たことを日記に記している。
「二月十日 聞くところによると、西郷と大山を暗殺すべく当地に下った者たちは、江戸の大警視川路某(利良)の内命を受けていたという。川路は昔は『足軽』だったそうである」
「川路の共謀者は内務卿の大久保で、大久保は昔は米倉庫の小役人だったそうである」
「暗殺の陰謀に加わった者たちは、一名の江戸の『さむらい』を除くと、すべて薩摩の出身者だという」
「政府が大久保と川路を引き渡せば、もうそれ以上の流血を見ることはないという」
(大久保憎し、川路憎しの激情が西郷軍のあいだで渦巻いていたのであろう)
また同時に日記で戦機が高まっていることを述べている。

「今日、多数の兵が練兵場に集まり、銃を組んでいるのを見かけた。かれらは部隊に編成されつつあるのだという」
「薩摩側は、他藩の支援を要請するつもりはないし、これを受け入れるつもりもないそうである」
「兵たちの唯一の目印は、目深にかぶった帽子につけた赤い鉢巻きである。装備は刀と小銃である」
このサトウの記述でもわかるようにもはやだれにも止められないほど反政府の感情は増大し戦機は高まっていた。
翌十一日、突然西郷がウイリス家に姿を見せるのである。西郷はすでにサトウが鹿児島に来ていることを耳にして、ウイリスの家に滞在していることも知っていたのであろう。旧知のサトウにそれとなく別れを告げに来たのである。

「二月十一日 西郷がウイリスに会いに来た。ウイリスは用事で西郷を訪ねるつもりであったし、わたしも西郷を訪問したいと思っていたところであった」
「西郷には約二十名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意ぶかく監視していた。そのうち四、五名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷に付いて家の中へ入ると主張してゆずらず、さらに二階へ上がり、ウイリスの居間へ入るとまで言い張った。結局、一名が階段の下で腰をおろし、二名が階段の最初の踊り場をふさぎ、もう一名が二階のウイリスの居間の入り口の外で見張りにつくことで、収まりがついた」
「会話は取るに足らないものであった」
「ウイリスは、紀州出身の三田村(一)が医師団の長として従軍するつもりでいるので、この三田村に明確な地位を与える必要を西郷に強調しておきたかったのである。西郷とわたしも二、三ことばを交わした。西郷は、下士官と兵の数は一万を越えるであろう。出発日は未定であると、われわれに語った」
「おそらく、西郷は、取りあえず、自分の目的は自分の暗殺をたくらんだ者の処罰を要求するだけである、そう思われたいのであろう。しかし、それだけが西郷が行動を起こした本当の、そして唯一の動機であるとは到底信じられない。日本において表向きの開戦の理由は、決して本当の理由ではない」サトウが西郷と会ったのはこの日が最後であった。

(当時西郷は西郷軍の本営になっていた「旧厩跡」の私学校に移っていたが、そこにウイリスとサトウ、とくに日本語を自由に駆使するサトウが訪ねてきたらどういうことになるか。サトウとの会話は当然挙兵の理由に及ぶであろう。いや及ばざるをえないであろう、そうなっては面倒だと判断して、西郷は自ら出向いてきたのではあるまいか。しかし、このときの西郷の来訪ぶりは異様であった。(中略)ここに描かれている西郷の姿は、あたかも「虜囚」のそれに似ている。中原尚雄らの自白にもとづく暗殺計画が発覚していたとはいえ、この警戒ぶりは尋常ではない。護衛たちが「監視」していたのは、暗殺の危機ではなく、西郷の発言の内容ではなかったか。
最初、護衛たちがウイリスの家に入るのを西郷が制止したことからみても、西郷は旧知のサトウやウイリスに何かを語りたかったのかもしれない。しかし、こういう状況下では、西郷は無口にならざるをえなかったであろう。そして、そのけはいを察したサトウは、挙兵の理由などについて、口を慎まざるをえなかったのではあるまいか)同じく同日付の日記である。

「最初に仲間に加わった者は、だれもが小銃一挺と三十円を自分で用意しなければならなかったが、今では呼び掛けに応じた者は、自分でそれらを用意できない場合、これを支給してもらえる」
「すべてはずっと以前から準備されていたことで、ただきっかけを待っていただけである。四年前、すなわち、一八七三年(明治六)に西郷が江戸から帰ってきたときにはじまったことである」
「大山は、艦隊が鹿児島を砲撃しに来るかどうかをたずねられたとき、『いいえ』と答えたが、それは『もちろん否』を意味する独特のつよい口調であった」
「最初の出発は多分十五日になるが、この日は旧暦の一月三日で伏見の戦いの当日にあたる」
「江戸の大警視川路が自分ひとりだけの発意で西郷暗殺を企てることは、到底ありそうにないことである。内閣も多かれ少なかれ、この陰謀にかかわっているにちがいない」
「二月十二日 夜間、大量の雪が山岳地帯に降った。吉野や、桜島や、当地と市来の海岸の間に連なる山々が、雪をかぶっている。部隊が続々到着している」

「今日、大山の各県令宛ての回状と、中原の口供書を貼った掲示板が、ところどころに立てられた」
「二月十三日 昨夜から降った雪が二インチ(約五センチ)も積もった。今日は旧暦の元日で、ひとびとは以前とかわりなく、これを祝っている」
「つぎのうわさがひそかにささやかれている。すなわち、中原尚雄以外の者の口供書がまだ公表されない理由は、それらが川路ばかりでなく、大久保と木戸にも罪を負わせる傾向があり、薩摩側の指導者としては、政府にたいする現在の敵意を維持すれば十分であって、いまの段階でそれ以上のことを暴露するのを欲しないからだという」
「たとえば、政府が川路や、その他西郷暗殺の陰謀にかかわった者を引き渡すことにでもなれば、薩摩側の開戦理由は大いに弱まることになろう。それだからこそ、かれらは政府側の使者との交渉を極力避けようとするのであろう」
「肥後の乱(神風連の乱)の主たる原因は、廃刀令の布告がしめすように、士族階級を抹殺しようとする政府の明白な意図だという。薩摩士族が政府にたいして激怒しているのは、かれらの家禄を奪おうとしている政府の役人が高給をむさぼり、多額の金を消費しているからだという」
「二月十四日 終日、吹雪が荒れ狂った。青空がのぞくわずかな合間を縫って、散歩に出かけた」
「前衛は今日出発した模様である」
「練兵場に兵が集団を作ってたむろし、構内の棒くいや竹をもやした焚き火のまわりで、暖をとっていた」
「二月十五日 夜間に降った雪が六インチも積もった。それぞれ二千名から成る二大隊が今日出発した」
「野村某(網)の口述書が掲示された。これは西郷暗殺の陰謀に関して、直接大久保に罪を負わせている」
「前原(一誠、萩の乱の指導者)も、大久保の密使にそそのかされて反乱を起こした110
のだ、その密使は西郷の使者だといつわり、西郷の支援を約束した云々、といううわさも流れている」
「川村(純義、海軍大輔)が西郷と仲が良いことはまちがいなく、川村が鹿児島への出動を艦隊に命ずることは決してないだろうという」
「昨年の十一月に千五百名の海兵隊員が除隊になったが、そのうちの下士官と兵の全員が鹿児島に帰ってきたそうである。つまり、政府軍の下士官と兵の中には、ひとりも薩摩の人間はいないというわけである」

「篠原(国幹)は今日、部隊を率いて出発した。桐野(利秋)は明日、そして、西郷は明後日、選りすぐった五十名の護衛隊と、わずかに大砲十六門の砲兵隊を伴って出発するという」
「今日も終日、ほとんどやむことなく雪が降りつづいた」
「二月十六日 今朝早く、四千名の部隊が出陣していった。日が照りはじめ、雪解けになった」

「大山が訪ねてきた。わたしも十八日には当地を出発してよく、加治木まで旅をしてもよいとのことである。大山によると、政府の海軍が妨害に出る危険はまったくないという」
「二月十七日 西郷と護衛隊および砲兵隊がボートに分乗し、小型の蒸気船鹿児島丸で、加治木まで曳航されていった」
「ウイリスは西郷の出発を見送りにいったが、ウイリスの話だと、西郷は日本の陸軍大将の正装を身につけ、舶来の葉巻をくゆらしていたそうである」

「今日の午後、大山が部隊のめでたい門出と新年を祝って、宴会を催したが、わたしはひどい風邪のため、出席できなかった」
「長官(パークス)に宛てて長文の報告を書き、この二週間の出来事を簡潔に説明し、これに文書類を同封した。報告の日付は二月十八日とした。これを現在碇泊中のショベリーン号(太平丸)に託せば、熊本と長崎経由で帰るわたしよりも先に、多分この報告は長官のもとに届くだろう」

二月十八日、サトウは鹿児島をあとにする。帰路は西郷が進んだ後をたどるように、加治木、吉田、人吉、八代に立ち寄りながら長崎経由で三月七日、横浜に着いている。東京に戻ったサトウはしばらくたった三月三十一日に勝海舟を訪問した。(この日の書き出しは「旧友勝安房を訪ねる」となっている。サトウにとって海舟は、西郷の反乱について胸襟を開き語り合える唯一の日本人なのである)。勝が語った主なことは次のとおりである。

「政府側のつたえる政府軍勝利の報道はみなでたらめだ。熊本城はこの二十七日に西郷軍に明け渡された。柳原の鹿児島派遣もばかげた話である。かれらは鹿児島から弾薬を運び去らなかったし、要塞も破壊しなかった。そもそも破壊すべき要塞などなかったのである」
「武器弾薬はひきつづき鹿児島から西郷軍のもとに送られている。西郷軍は金を必要としない。米は肥後に豊富にあり、農民を味方にしているからである」
「この内乱を阻止するために必要なことは何か。それは大久保と黒田の辞職に尽きる」
「川路は西郷暗殺のために部下を鹿児島に派遣したと、自分は信じている。大久保も暗黙のうちにではあろうが、この陰謀の一味であったと信ずる」
「勝はこれ以上の流血を防ぐために、サー・ハリー・(パークス)が仲裁に入り、友好的な助言をおこなう機会があることを望むと述べた」
「この二十四日に長官(パークス)が岩倉に述べたことをつたえると、勝は非常によろこんでいる様子であった」
「さらにそのさい、薩摩軍は降服するつもりなど毛頭ないと、岩倉が答えたことを紹介すると、勝は笑い出し、もちろんないにきまっている、降服したいのは政府のほうだと、吐きすてるように言った」
パークスは外務卿寺島宗則と右大臣岩倉具視に「恩赦」の措置を持ち出している。
『サトウ日記』より、四月十五日に岩倉と会う場面である。

「四月十五日 岩倉によると、今日は川尻で大激戦があるにちがいないが、反徒を殲滅するまでには、まだ時間がかかるだろうとのことである」
「岩倉の話では、募集される一万名の『壮兵』は主として士族であろうが、他の階級の出身者もまじるであろうし、廃藩置県以前に徴兵制を施行した紀州(和歌山)だけでも、五千名は用意できるだろうとのことである」

「そこでわたしが政府側に立って戦った士族は、九州から凱旋後、帯刀の特権の復活を希望するかもしれないと指摘すると、岩倉はいやな顔をした」

(四月十六日 西郷の実弟従道(信吾)がパークスと食事をともにし、イギリス極東艦隊司令長官ライダー(A.P.Ryder)中将とサトウがこれに同席した。当時従道は参軍として九州に赴いた山県のあとをうけて、陸軍卿代理をつとめていたが、以下はサトウの日記の伝える従道の談話である)

「四月十六日 西郷は最新の電報によると、黒田と山県と谷は連絡に成功したが、木葉と植木を経由して進んだ部隊(正規軍)は、まだ熊本に入っていないと語った」
「鹿児島勢は日向の方向に退いたそうである。かれらのうちの最良の戦士は、大部分が戦死してしまったので、今後はげしい戦闘がおこなわれることはあまりあるまいというのが、かれの予測である」
「それではかれの兄の吉之助(隆盛)はどうなったのか。かれはわからないと答えた」
「政府は七千名の巡査をふくめて、総勢約四万二千名の兵を派遣したが、そのうち負傷兵は一万名、戦死者の数は不明だという。鹿児島側の死傷者の数も不明だという」
「今夜到着する予定の電報は、いっそうくわしい情報をつたえてくるであろうし、これによって戦闘が終ったかどうかがわかるであろうが、自分としては終ったものと思うと、かれは述べた」
(この戦闘は熊本城攻防戦のことを指している。つづいて話題は西郷暗殺の陰謀のことに移り、従道は大久保と川路が暗殺を命じたことをはっきり否定した)

「別府晋介、淵辺群平(高照)、辺見十郎太の三人が、反乱の本当の首謀者であり、兄暗殺の陰謀の話をひろめたのは、かれらである。吉之助(隆盛)、篠原、桐野、村田新八、それに大山は、この三人にだまされて、陰謀の話を信じ込んだのである」
「たしかに大久保と川路が薩摩の政情を視察させるために送り込んだ者たちは、派遣するにふさわしい人物ではなかったし、かれらが自分たちの任務は騒ぎを起こすことだなどと、挑発的な言辞を弄したこともまちがいない」
「しかし、大久保も川路も、吉之助を暗殺せよという命令など決して出さなかった」
(ここでパークスが口をはさんだ)
「自分は吉之助が無事でいることを望む。吉之助やその他の指導者たちを殺すかわりに、かれらを任意に亡命させるのは良い考えではないだろうか」
(これにたいして、従道はつぎのように答えた)
「仮にそのような機会があたえられたとしても、吉之助はそれを利用しないだろうと思う。かれは死刑執行人の手にかかるのではなく、何か別の方法で死をえらぶだろうと思うが、自分もそれを望んでいる」

(つづいては従道は明治六年(一八七三)の「征韓論争」と、それにもとづく政府の大分裂にことばをすすめ、つぎのように述べた)
「その後に起こったことを考えると、朝鮮との戦争は、あの当時の日本にとって最善の策であったと思われる。あのとき自分はこれに反対したのだが、それは清国が黙って見ているとは思えなかったからである。しかし、その後の台湾事件は、清国を恐れる必要は何もないことを証明した。もし江藤新平と兄が肥前と薩摩に帰らず、江戸に残ってさえいれば、佐賀の乱も、今度の反乱も、決して起こりはしなかったであろう」

(ふたたびパークスが口をはさんだ)
「多くの理由から、朝鮮と戦争をするよりも、この内乱ですませるほうが、おそらくよかったと自分は思う」

(七月中旬、サトウはカンバラ・セイジと名乗る、かなり年輩の旧南部藩出身者の来訪をうけた)
「七月十三日 訪ねてきたカンバラは、かねてからウイリスが九州に下り、戦傷者の
ために設立された博愛社のために働いてくれること、そのさい機会をとらえて西郷と会い、かれに降服をすすめてくれることを切望していたと説明した」

(カンバラのいう博愛社は、西南戦争のさい、敵味方の区別なく傷病者を治療するために、佐野常民(肥前出身)が創設した戦地病院のことで、日本赤十字社の前身である)
(サトウはカンバラにつぎのように答えた)

「政府がウイリスの九州行きを許すことは到底ありそうにないことだし、たとえウイリスが出かけたとしても、用心ぶかい護衛に取りかこまれた西郷に直接面会することはまずできまい。それにウイリスはこのような微妙な性質の交渉をおこなえるほど、日本語をうまく話せない。一般的にいって、平和の回復が自国民の手によってなされるほうが、日本のためにずっとよいであろう」

(このように答えたサトウは、ただしつぎの点にはふれなかったと、日記に記している)
「これは言い添えてもよいことであったが、言わないでおいた。すなわち、ウイリスはあまりにも西郷の味方すぎて、西郷に降服をすすめる気になど、到底なれないことである」
(しかし、サトウはここで話を打ち切らず、ウイリスの代わりに勝海舟の名前をあげた)「わたしは勝こそ仲裁に乗り出すのにふさわしい人物であろうと述べ、カンバラの要請を容れて、勝訪問を約束した。そして、サー・ハリー(パークス)の許可を取りつけ、午後、勝を訪ねた」

「勝はこのような性質の仕事を引き受けることにまったく反対であった。そしてそこには二つの動機が主としてはたらいているように思えた。ひとつは、大久保への憎悪であり、もうひとつは、西郷への同情が多少でもあきらかになった場合、勝自身の自由が危険にさらされはしまいかという恐れである」
(勝はつぎのようにサトウに打ち明けた)

「ずっと以前から、自分は大久保の支配下にある政府には仕えまいと心に決めている。大久保が台湾問題解決のために北京に向うのを見送って以来、大久保には会っていない。じつは薩摩の反乱が起きる前のことだが、政府の使者として鹿児島に下り、騒動の勃発を防止するような話し合いをつけてくれという申し入れが、自分にたいして何度かあったのだが、大久保の伝言を届ける人足として利用されるのは御免だといって断り、それでこの計画はつぶれてしまった」
「七月十七日 朝早く、カンバラ・セイジがわたしの勝訪問の結果を聞きにやってきた。勝が仲裁を引き受けなかったことをつたえたが、その本当の理由は一切もらさないように注意した」
サトウはカンバラに

「わたしは、これほど人民の発言を封ずる政府は、ありがたい政府ではなく、そういう政府に服従するよう西郷にすすめるのは、理にかなったこととは思えないと述べた」
「九月三日 フラワーズ(長崎領事)からの電報によると、西郷が鹿児島を奪い返したため、県令(岩村通俊)は蒸気船で長崎に逃げてきたそうである」
「西郷がどのあたりにいるかが報じられてから、もうかなりの日数が経つ。官軍が延岡を攻略したのは二週間前だから、西郷が鹿児島に帰りつくまで十分な時間があったわけだが、それにしても、これは信じがたいことである」
「九月五日 今朝の日本の新聞は、反徒の鹿児島突入の記事で埋まっているが、それを要約すると、つぎの如くである。反徒は鹿児島から官軍を完全に撃退することに成功せず、町の西南にあたる要害の地(城山)に立て籠ったこと、官軍の増援部隊が熊本(阿久根経由)と都城から派遣されたこと、別の増援部隊が鹿児島湾に臨む加治木に上陸したこと、などである」
この数日後から三週間におよび(サトウは)旅に出て十月三日に東京に帰っている。

「十月三日 九月二十四日の朝、城山にたいする官軍の総攻撃によって、薩摩の反乱は終った。西郷は両足を弾丸で撃ち抜かれ、動くことができなくなったので、(別府晋介が)その首を落とした。他の指導者たちもみな殺された。約四百名が捕虜になるか、あるいは投降し、わずかに数名が逃走した。官軍から助命の申し出はなかったが、それは予想されたことであった」
次は一八七八(明治十一)年五月十四日のサトウの日記である。
「五月十四日 今朝、大久保利通、別名一蔵が、五名の加賀(石川県)士族と一名の石見士族によって暗殺された。かれらは犯行後、ただちに警察に自首した」
「大久保は民衆から非常に憎まれていたので、だれもがかれの死をよろこんでいるように見うけられる」
「大久保が文字通り政府の中心人物であったことはまちがいない。一八六二年(文久二)に生麦でリチャードソンが殺害されたとき、かれは島津三郎(久光)の行列の中にいたのだが、私は今日までそのことを知らなかった」
「たしかに大久保は自分の目的に役立つような場合をのぞくと、外国人の助言を求めたり、外国人との友情をふかめたりするつもりはなかった」

ここまでサトウの日記をとおしてサトウの目で見た西南戦争を書いてきた。日記に登場するウイリスも勝も西郷贔屓なのである。イギリス人の外交官と医師が西郷の命を助けようとしていた。戦局が悪化し退却をよぎなくされたとき、大分中津隊の隊長増田宋太郎が「西郷に一日接すれば一日の愛あり三日接すれば三日の愛がある、親愛は日に増すばかりである。幸い自分は隊長として西郷と接する事ができた。自分は西郷と共に行動する。諸君は郷里に帰ってわれわれの赤心を伝えてくれ」

と同志に語ったことを思い出す。
 幕末明治期に外国人にこれほど思われた日本人がいたであろうか。西郷は外国人であろうと日本人であろうと地位があろうとなかろうと区別しない。一人の人間として友人のごとくこまやかな配慮で接している。それが西郷贔屓にしてしまうのである。私学校徒の篠原や村田や桐野ら幹部に対してもそうであっただろう。

 しかし西南戦争の原因は西郷にもある。彼らと接する時間が少なすぎたため、私学校徒という集団が次第に意志を持ち始めたのである。必然的に集団の意志は幹部の意志となり、政局の流れの中で反政府の気運が暗雲のごとく立ちこめたのである。自然現象のごとく火薬庫襲撃事件という雨になり、ついには雷雨を伴った西南戦争という大雨になってしまった。西郷が火薬庫襲撃事件の報せを知ったとき「しまった」と口に出したと言われているが、いったん降り出した雨は誰にも止められない。海舟が言う「こぶんは無い方が善い」の結果となってしまった。この時、西郷は自身の生は自身の物でないと決定し、私学校という担ぎ手の神輿になり指揮命令はしないようにした。
 この時期、戊辰戦争のような内戦を続けることは日本のためには出来ないのである。なるべく双方の被害を少なくするため負けなくてはならなかった。それゆえに「今般政府へ尋問の筋これあり」と県庁に届け出て直訴の形をとった。これも取って付けたようなものである。西郷の考えでは、「与人役大体」で示したように、天皇を含めたすべての役人は民のために仁愛を施さねばならない。私学校徒の多くは県庁の役人である、彼らが民のためになすべきことは、上級役人や政府に対して何度も民がよくなるために訴えそして改めさせることが義務と言える。

その行動目的として「今般政府に尋問の筋これあり」の標語を立てたのである。西郷はいまだに「征韓論者西郷」として評されている。その目的を不平士族の不満の捌け口とした。使節として朝鮮に行きそこで殺されたら戦争の口実になるなど、誤った西郷論が通っている。岩倉遣外使節団に起因する日本歴史の流れを再考し、サトウやウイリスと接したように人種や国籍にとらわれず人間として接した西郷の宏量を、日本国もわれわれ日本人も見習わなければならない。

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