西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p014-第一章_12

道義国家を目指した西郷吉之助

第一章  西郷隆盛

12 西郷吉之助

西郷に関する書籍はそれこそ数えきれないほど出版され、さまざまな見方の西郷像が表現されている。サトウの日記の中で出てくる日本人の中で圧倒的に多いのは西郷である。これまでイギリス人サトウの目で見た西郷を書いてきた。

西郷は維新三傑の筆頭であったにもかかわらず西南戦争を起こした。政府に対して反乱を起こしたという事実があまりにも衝撃的であったためか、歴史家は反乱者という括りで西郷の事跡を検証するようになっている。そして政府による勝者の歴史が加わり、現在の西郷像の大枠が形成されている。「西郷さん」と呼ばれて大衆に親しまれ愛され、鹿児島と山形には南洲神社がある。遺徳を忍ぶ催し物は毎年行われて、多くの人がそれぞれの「西郷さん」を心の中に抱いている。

日本史の中では、ねつ造されたのではないかと思えるほど西郷は誤って解釈されていることも事実である。西郷の思想や哲学を知る上で、また西郷の持つ違った一面を表現するときに『西郷南洲遺訓』が取り扱われている。しかしそれはあくまで副次的な活用のされ方である。西郷像を形成する資料として、関係する書簡などを参考にすることは一面正しいが、特に西郷のような人間の場合はそれだけではとらえきれないのである。いみじくも勝海舟が「西郷は知るには西郷ほどの人間でなければわからない」と述べていることは当を得ていると言ってよい。西郷に限っては、人物研究は遺訓集から始めるべきである。遺訓集が西郷研究の要かなめの役割を果たしているからだ。

たとえば、遺訓集の第一項に記された「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うもの」の「天道を行う」という言葉それ自体が、研究者の思考から外れているだろう。当時の大久保や木戸をはじめ伊藤、大隈ら明治政府の中心的存在であっても「政治は天道を行うもの」という発想はなく、西郷が彼らに述べたとしたら「現実離れした発想だ」と一笑されたであろう。人間は己の思考外にあることは見えず、また見ようともしない。研究するにはめんどうで難解である。ついつい安易な書簡などの文書の研究に入ってしまうのである。しかし、実際、遺訓集には西郷そのものと言ってよいほど西郷の本質が表現されている。その遺訓集の中には「道を行う」という言葉がさかんに出てくる。「道」とは一体何かも研究しなければ西郷の行動原理が分からないのである。

「道」に対する理解を深めるために、西郷三十二歳のときの入水自殺事件をとりあげてみる。当時、西郷が敬愛してやまない主君島津斉彬がなくなり感傷的になっていたこと、藩政が変化したため、近衛家から身の安全を託されていた僧月照を守れなくなったこと、この二つが主な動機となり責任を感じ短絡的に自殺を選んだことになっている。これらも確かにあるにはあったが、もっと本質的なものが遺訓集に表れている。一般論で言えば、西郷は月照に対して藩庁に何度も交渉し庇護を求め、やれるだけのことはやったのである。これ以上のことはできないのだから、西郷は月照を手放すこともできたはず。一般的には、ここでともに死のうとはならない。そこで、一般的な自殺の動機となる「思い詰めて」が入って来て西郷にも適用されることになる。

月照は藩のために、ひいては日本のために斉彬の命を受け行動したのである。藩の方針が変わったからと言って、そこが死地であるかも知れない所へ一人で行かせるわけには西郷の義が許さない。月照を見殺しにするようでは西郷の唱える道が立たないのである。西郷そのものが西郷でなくなってしまう。生きる屍となり、死ぬより恐ろしいことなのである。西郷がとった行動は自身の命を差し出し少しでも月照が安心できるようにすることであった。
後に西郷が述べたように「はじめは刀を使っての自殺を考えたが月照が僧であるため入水自殺を選んだ」。月照を気づかい、ともに歌を読み肩を組み合い、十二月の海に身を投じた。この時期、修業によって「道を行うこと」が己の命よりも重いと感得していたかはわからないが、西南戦争のとき私学校徒に自身の命を差し出した西郷の原型は、月照との入水自殺にあると言ってよい。

運命のいたずらとしか思えないのは、数時間後に西郷と月照は海中から浮き上がったところを助けだされるが、若く体力のあった西郷のみが蘇生したことである。このことに西郷は非常に苦しんだ。後追い自殺をしないかと身辺から刃物類が遠ざけられたという。厳しい見方をすれば西郷の短慮によって月照は殺されたことになる。西郷
の信じる義や道がまだ未熟であったのであろう。
「道を行う」を確かなものとして自身の思想哲学にまで高めたのは、奄美大島での潜居および、徳之島と沖永良部における流罪人の生活であった。その南海の孤島で西郷は三十二歳から三十七歳まで約五年間を過した。
奄美大島龍郷の約三年間、傷心の西郷は島民のあたたかさとやさしさの中に埋れてしまいそうなほど癒され、妻子ももうけて充実した生活を送った。そのような中でも道を求める修業は続け、読書とそれによって得た理義の実践を試みていた。龍郷の西郷が住んでいた家の庭には勝海舟の筆による碑石が建立されている。それが次の碑文である。

「天の此人に大任をくださむとするや、先づ其しん志をくるしめ其身みを空乏すと、まことなる哉此言、唯友人西郷氏に於て之を見る、今年君の謫居せられし旧所に碑文を設くるの挙あり、島民我が一言を需む、我卒然としてこれを誌し以てこれに応す

 明治二十九年晩夏       勝安芳」

西郷は名君島津斉彬に見い出され、幕末という日本史上最大の国難に直面した。主君斉彬亡き後、志を継ぎ国難に対処できる人物であるかないか、天が西郷をこの任に値するか試すためあえて試練を与えている。そのように勝海舟には見えたのである。徳之島と沖永良部島では罪人であり試練は一段と厳しいものであった。特に沖永良部島での「囲い牢」は動物の檻といってよく、野ざらし吹きざらしの外界と牢格子で仕切られているだけ。雨風をさえぎりようもなく苛酷なものであった。日本史に名を残した人物の中でも、この時の西郷ほど、家畜のような環境に置かれて明日の命さえ分からない試練を受けていた者はいない。何一つ不平不満をこぼすことなく、起きている間は終始端座し書を読み、あるいは沈思黙考していた。

しかし、苛酷な状況は西郷をみるみる衰弱させていく。そんな姿をみていた監視役の土持政照はこのままでは牢死してしまうと思い、何とか助けたいと代官に申し出た。自費で自宅に「囲い牢」をつくることが許され、土持政照の尽力で西郷は一命をとりとめたのである。入水自殺で己ひとりが生き返り、願ったことではないが死の淵から助け出された。一体人間の生とはどのようなもので、死は何を意味するのであろうか。生あることのありがたさを西郷は天に感謝した。連綿と続く人間の生と死。死は万人に等しく訪れる。貴賤の差別をしない。奄美大島では藩役人の苛政にあえぐ島民を目の当たりにした。民の存在とは何であろうか。領主の所有物であり、年貢を納めるために生かされているのであろうか。

大島で凶作の年、年貢を払えないため農民が代官所に拘束されるという事件があった。西郷は流罪人同様の身分でなんら権限はなかったが、時の代官相良角兵衛にかけあい事の理を説き農民を解放させた。三十二歳から三十七歳までの五年間(一時赦免され鹿児島に戻った時期を除く)、南海の孤島で生きたことがその後の西郷を形成したのである。この事実をもとに西郷を研究しなければ、討幕期と維新後の西郷の不可解さが不可解なままで終わってしまうのである。

歴史教科書などで述べられる「西郷隆盛」は銅像のように形が固定されたまま、現在でもイメージが変わっていない。解釈の違いや見方の相違と言われてしまえばそれまでであるが、世界史の中でも類のない人物であり、今後の日本が世界に誇れる人物と言ってよい。本書を「西郷吉之助」としたのは、明治になって付けられた「隆盛」ではなく、年少の頃からの呼び名であり自らも名乗って苦楽をともにしてきた名前「吉之助」を使うことで、西郷の人間としての本質を伝えたかったからである。知れば知るほど、研究すればするほど西郷の素晴らしさや偉大さを実感できると確信する。このままの西郷評を歴史にとどめることは実にもったいないのである。人が成長し強くたくましくなり、生きる目的をつかみ自分以外の他をも愛せるようになる過程を自身で表現している。これからの人類発展に必要なモデルになるとも言える。そのために、より多くの人々が西郷の本質を研究することを願うのである。

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