第二章 道義主義
1 道義とは何か
西郷は、人は道を行うものとした。この章では、幕末明治初頭に西郷が唱えた「人には人が行うべき正しい道がある。人はその道を歩むことで人として成長することができる。それが人の生きる目的でもある」という考え方をもとに、人間の生きる目的や人の道について考察したい。
西郷は思想的人間である。明治維新当時においては、その思想は理想的でありすぎ、理解されようもなかった。自身の思想を具現化するために思想闘争や政治闘争もしなかった。毛沢東思想をめぐって繰り広げられたような思想・政治闘争は、西郷が唱える人の道にはそぐわないと思ったのであろう。とにかく西郷の心の奥には民衆を主体とし、民衆が人の道を行える環境を持った道義国家の建設を目指していたであろうことは、遺訓集や「与人役大体」を見ると明らかである。
西郷のこの考え方は二十一世紀の今日においても、やはり常識からかけ離れている。しかしながら、そろそろ西郷が目指した道義国家が必要とされるときに来ているのではないだろうか。人類は新しい思想と新しい社会体制を求めているのではないだろうか。国家や人種ではなく人間のあるべき姿に目を注ぐ西郷思想は、これからの人類にとって新たな道しるべになり得ると信じるのである。
道義の意味は広辞苑に「人の行うべき正しい道。道徳の筋道」と記されている。一般的に「道義的責任がある」とか、「道義心に厚い」などと使用されている。
ただし、「人の行うべき正しい道」とは何か、どのような行為を行うべきかなど、その一つひとつを具体例のように何百と表示しているわけではない。何が人として正しい正しくないと言ったように明確な規定事例はなく、「人として正しい」という漠然とした判断基準である。このため、「判決は無罪であったが道義的責任は免れまい」などと評されたりもする。
しかし、日本ではこの言葉があるため、人の行為をおぼろげながら照らし出す規範となっているが、これに類する言葉自体が存在しなければ、「人の行うべき正しい道」とは何かさえ全く理解できなくなってしまう。日本語の「道義」という言葉の持つ意味が「人の行うべき正しい道」とするなら、世界各国で人種、民族に関係なく人間であれば誰しも「道義」を規範として受け入れることになるはずである。ここで考えなければならないのは、「道義」が人間の子として生れたら本能として備わっているか、それとも後天的に学び知ることで身につくかという点である。
二〇一三(平成二十五)年の中頃に起きた事故を振り返る。すでに遮断機が下りている踏切の中で、老人(七十代男性)が動けないでうずくまっていた。それを見ていた三十代の女性が踏切の前で止まっていた乗用車の中から、同乗していた父親の制止を振り切って飛び出した。女性は老人を助け出しながらも、電車にはねられて死亡した。
事故後、通り行く人々が「あなたは同じような場面で同じような行動がとれますか?」と報道関係者からインタビューを受けていた。果たして、この女性のとった行動をあなたは出来るだろうか。しかしながら、このような例は過去にいくつかあった。助ける対象は、電車のホームから落ちそうになった老人や子供であったり、また海や川でおぼれている人であったりした。わが身の危険を省みず他を助けねばと行動に移したのである。歴史上でも同じ事例は多い。見も知らぬ赤の他人に対してとっさに実行できるのは、人間のどういう思考によるのであろうか。瞬間の判断である。このような場面では、人間には道義というスイッチが一瞬で入るようにつくられているのだろうか。
人間が頭の中で思い考え行動に移すときは、九九・九九%自分のためである。この原則をジョージ・アダムスキーは著作『宇宙哲学』で次のように説明している。
「あなたが自分の心の反応を公平に分析できたら、あなたの想念(思ったり、願ったり、考えたりすること)の九九・九九%は、あなた自身、あなの家庭、仕事、友達、子供、財産などに向けられていることがわかるであろう。これを類別してみると、あなたの想念の八五%は、自分をどのように維持していくかという自己維持の考えでいっぱいであり、あとの一四・九九%は自己快楽にとらわれています。したがって、宇宙的な知識を求めるのには、わずか〇・〇一%が残されているに過ぎません」
要するに人間はどういう人であれ、朝から晩まで自分のことばかり考えている。どういった行動であれ、自分のための、すなわち自己を維持するための行動であり、自己快楽を求めるための行動なのである。
このような人間の想念の中で一瞬わが身のことは消して、他を生かさねばと無私の行動に移せることを「宇宙的な知識」とアダムスキーは述べたのであろうか。実際に人のためとか、世のためとかいう行動も突き詰めれば、九九・九九%自分のためにやっていることになる。己の生命をも差し出す無私の行動は千人に一人いや万人に一人もいないであろう。
自己を維持することと自己快楽を求めることが、人間の想念の九九・九九%を占めているとしたら、無私の行動は非常に難しい。
さまざまな人生の場面において、道義(人として行うべき正しい道)が本物であるか試され、人は道義を行うことができるか否か問われる。道義が本能のように先天的に人間に備わっているか、あるいは後天的に学んで身につけるか、ここでは検証することはできない。しかしながら、西郷の道義に対する考え方を解明することで少しは分かるであろう。