西郷党BLOG

一箇の大丈夫 西郷吉之助 p013 第一章-11

一箇の大丈夫西郷吉之助

遺訓を残さない

功成り名を遂げると人は自分の功績を顕したくなる。生前の功績や偉業を後世に残し、死んだ後も「立派な人であった」「偉い人であった」と子孫や後世の人々に評されたいのである。後世の評価を意図して仕事をする場合もある。功成り名を遂げた人の中には、この業績であれば自分が歴史上の人物になることが分かるようになり、後世の評価を目的とし現世を脚色する場合もある。それほど人間のもつ名望欲や自己顕示欲は強烈である。アメリカ大統領も任期終了が近づくと後世の評価を意識して汚点を残さない政策を行うようになるという。

さまざまな欲望と感情をもつ人間が織りなす歴史であるから、一つの歴史上の事件であっても、真実をとらえるのは極めて難しい。そのことを勝海舟は『氷川清話』(歴史とは何か)で次のように述べている。

「おれはいつもつらつら思うのだ。およそ世の中に歴史というものほどむずかしいことはない。元来、人間の知恵は未来のことまで見透かすことができないから、過去のことを書いた歴史というものにかんがみて、将来をも推測しようというのだが、しかるところ、この肝心の歴史が容易に信用せられないとは、実に困ったしだいではないか。見なさい。幕府が倒れてからわずかに三十年しか経たないのに、この幕末の歴史すら完全に伝えるものが一人もないではないか。

それは当時の有りさまを目撃した古老もまだ生きているだろう。しかしながら、そういう先生は、たいてい当時にあってでさえ、局面の内外裏表が理解できなかった連中だ。それがどうして三十年の後からそのころの事情を書き伝えることができようか。いわんやこれが今から十年も二十年もたって、その古老が死んでしまった日には、どんな誤りを後世に伝えるかもしれない。歴史というものは、実にむずかしいのさ」

確かに海舟の言うとおりである。征韓論争にしても、征韓論者西郷の下野で簡単に片付けられているが、それは海舟のような目をもった人が見たものではない。風評に左右されやすい人、自己の感情や思想の入った色眼鏡でしか見られない人、表面やものの一部しか観察できない知識人・学者といった人々が論じた征韓論である。それが現在まで相も変わらない明治六年の政変の定説となっている。

政治家が残す日記や書簡などは死後に読まれ研究されることを想定し、さらに後世の史家の評価を計算の上で書くこともある。ピラミッドや始皇帝の墓をみて分かるように、人間の欲望とは計り知れないもので、死んだ後もなお名声や名望を得ようとする。これは何も功成り名を遂げた人ばかりでなく、われわれ庶民においても年を重ね人生も後半を過ぎると、死後のことを気にかけ墓の心配をしたり財産分与の心配をしたり子や孫の行く末を心配したりする。自分が死んだあとの状態をどのようにするかということにエネルギーを注ぐようになってくる。

そこへいくと西郷は実に気楽である。「児孫のために美田を買わず」という。遺訓(故人の残した教え)もつくらず、平生の言動が同じで「死生をみること真に昼夜のごとし」と語る。朝目が覚めて夜眠るまでを生きている間(昼)とし、目を閉じて眠りに入ることを死(夜)とみなすのである。実際、眠ることは死と似ている。

睡眠が二度と目を覚ますことのない死と同様なものとしたら、眠る前には遺言を書いたり、明日の予定を変更したり、あわただしくなるだろう。しかしながら、朝は不変の事実としてやってくる。太陽が東から昇り西に沈んで一日が終わる、天地自然そのものである。だから、人間は安心して何も考えずに眠れる。

人間の生と死を、日々繰り返される昼と夜とするとき、眠る前にあれこれ遺訓を残したりはしない。自然に眠るだけである。西郷自身「死生をみること真に昼夜のごとし」の思いで生きようとしていたのであろう。ゆえに写真も遺訓もないのである。もう眠る時間だから明かりを消してくれぐらいの感覚で、別府晋介に「晋どん、もうここらでよかろう」と声をかけ、首を打たせたのであろう。生を閉じるとはこういうことであるのかもしれない。

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