大島三右衛門
西郷を語る時、避けて通ることができないのが、一八五八年(安政五年)十二月十九日、鹿児島湾の冬の海に僧月照と肩を組み投身自殺したことである。二人ともいったん海に沈みながら再び浮き上がってきて助け出されたが、若かった西郷一人息を吹き返した。月照は京都清水寺成就院の住職であり、島津斉彬の命により将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立のため西郷とともに活動していた勤皇僧である。
井伊直弼が幕府の大老となると、強権をもって紀州藩主徳川慶福を十四代将軍とし、さらに反対派の一橋派と尊攘派を徹底して弾圧する。これにより西郷と月照は幕府から追われる身となる。案じた近衛家は月照の庇護を西郷に頼むのである。西郷は安全のため薩摩藩(鹿児島)に月照を伴って帰るが、この時期藩主島津斉彬が急死していたこともあり、藩は保守派に入れ替わっていた。幕府の嫌疑を恐れた藩は、月照を藩外への追放処分とした。藩外への追放といっても、領地を出たところで斬られるという思いが西郷にあったため、「独りで死なせることはできない。自分がお伴するから一緒に死のう」と西郷が月照に申し入れ投身自殺をした。
このような状況下であったとはいえ、西郷は近衛家から身の安全を頼まれていた月照を己の短慮で死なせてしまったのである。二人とも死んでいたらまだしも、己のみ生きている。この事実は西郷の心を引きさかんばかりに苦しめた。何度も死のうと思った。後悔と罪の意識の大きさ。慙愧きの念と己への怒りと腹立たしさが入り混じり、憔悴していった。
後に、西郷はこの入水事件のことがよほど気になっていたのか、武士である西郷が刀を使わずどうして入水自殺を選んだのか、周りの人が疑問に思っているだろうと考え、「自分も刀を使おうと思ったが、月照が僧侶であるため入水を選んだのだ」と言
い訳めいたことを語っている。
この事件は西郷五十年の人生の中で最大の出来事であったといってよい。それ以降の西郷は、人間の生と死を超えたところにあるものは何か、見いだし究めようとしている。自身の存在目的を知ろうとし、真の自分自身は何かを知るための新たなる出発
であり、新生西郷の誕生となった。
西郷は月照との入水事件後、菊地源吾と名前を変えて奄美大島に流される。一八五九年(安政六年)二月十四日、西郷を乗せた砂糖積船福徳丸が奄美大島龍郷アザン崎に着いたのは、西郷が三十二歳のときであった。罪人ではなく大島潜居を命じられたのである。当初は年六石、後に年十二石の扶持米が藩から支給された。それも多くを生活に困窮する人に分け与えていた。大島での生活は住居もあり、島民に親切にされた。尊敬されて慕われ、島民に溶け込み、このまま生涯をここで終えてもよいと思うほどの日々であった。一八五九年(安政六年)十一月、龍佐栄志の娘愛加那と結婚し一男一女をもうけた。憔悴して傷ついた心の西郷にとって、奄美大島龍郷は天の配材と思えるほど恵まれた場所であった。
龍郷での生活が三年近くなろうとしていた。西郷は村の中に家を新築し、妻子とともに龍郷に住み着く覚悟をしていた。一八六一年(文久元年)十二月二十一日、間口二間半、奥行四間半の家が村の中央に出来上がり、その日のうちに三年近く住んだ小浜の家から引っ越した。夜には村の人々が集まって、新築と移転を祝ってくれた。折りしもその日、鹿児島からの飛脚船が着き「直ちに姓を改めて帰藩すべし」という召喚状が西郷のもとに届けられたのである。島妻であるため妻子を連れては帰れない。
二度と会うこともかなわない、妻子との別れをしなければならない。心配した西郷は、自分の志を知りヤンチュ・ヒザ(奄美の奴隷制度)の解放運動に協力してくれた代官所見聞役木場伝内に、島に残される妻と幼子のことを頼んだ。そして奄美大島に三年間いたということで菊地源吾から「大島三右衛門」と改名して一八六二年(文久二年)三月の初め、三年一カ月ぶりに鹿児島に着いたのである。