天が願うもの
「天」は「敬天愛人」の天である。「天は人も我も同一に愛し給うゆえ我を愛する心をもって人を愛する」と西郷が言う「天」である。いつのころかは分からないが、西郷は「天」を意識し、「天」と己を向き合わせている。「天」とは万物の創造主であり、大いなる善の意志、宇宙の創造主といったものである。キリスト教では人間は創造主に似せてつくられたとされる。ものを創造する力を持つ人間は創造主の分身であり子であるともいえる。
己という人間の存在意義や目的を無限大にまで拡大しようとすると、その先に厳然としてある「天」を感じずにはいられなくなる。我欲を無にして己の意識だけをどこまでも拡大していくと、無限に広がる「天」の意志と接して、その一部になってしまう。そこで西郷が感知して、言葉にしたものが「敬天愛人」である。西郷はそれを意識できるほどの修業と訓練を己に課していたのであろう。人間と「天」との関係はどういうものなのか、「天」が人間を存在させた目的は何か、心を無にして察知しようとした。
「如し能く天意いを識らば、豈敢て自ら安すきを謀らむや」は、西郷の漢詩のなかでも有名な詩の一文である。
「天」は一介の薩摩藩士西郷吉之助に何をせよと命ずるのであろうか。島津斉彬に見いだされ、幕末という日本にとっての大変革の時代と対面した。国難のとき、斉彬はすでに亡く己は遠島の身である。罪を得て牢獄にあって何一つ国のために働くことはできないとしても、自暴自棄になったり、志を捨て安楽にふけったり、易きに流されてよいものだろうか。果たして天がこの吉之助に本当に望んでいることは何であろうか。その真意(天意)を、私心をなくし十分によく理解しなければならない。そう考えるとき天は道に志す者、聖賢たらんとする吉之助が志を捨てることなど望むはずはない。いったん志したのである。たとえ、どんなに厳しい環境であろうとも、その志をますます強く大きくしていかなければならない。それが天意であり、たとえ国のために働く機会を得なくても目前にある出来事に対しひたすら道を行い続けることが、意に添うことになる。西郷はこのように思った。その思いを表した漢詩の全文を次に掲載した。
「能く天意を識らば」の中で「能」という字を用いているところに、西郷がいかに「天」と向き合っていたか、意識の深さが表れている。示外甥政直(外甥政直に示す)一貫唯唯諾一貫唯唯の諾従来鉄石肝従来鉄石の肝貧居生傑士貧居傑士を生み勲業顕多難勲業多難に顕わる耐雪梅花麗雪に耐えて梅花麗しく経霜楓葉丹霜を経て楓葉丹し如能識天意如し能く天意を識らば豈敢自謀安豈敢て自ら安きを謀
らむや(解)よろしい、引き受けたといったん承諾を与えた事は、どこまでも唯一すじにそれを貫き通さねばならぬし、これまで保って来た鉄の如く石の如く堅い肝だましいは、いついつまでもこれを動かしてはならぬ。豪傑の士は貧乏人の家に生まれ、勲高い事業は多くの艱難を経て世にあらわれるものであるし、梅の花は雪に耐えて麗しく咲き、楓の葉は霜をしのいで真赤に紅葉する。もしこの天の意の在る処がわかったら、自分で自分の安楽をはかるような事がどうして出来ようか。
西郷は天意を知ろうとしていた。そしてその天意に素直に従おうとしている。今日の日本や世界の人々にとって「天意」とは何であろうか。また、現代に生きる人に対する「天」の願いとはどういうものであろうか。