西郷党BLOG

西郷魂 西郷吉之助 p049 第五章-09

一箇の大丈夫西郷吉之助

大度

大きな度量のことを「大度」という。西郷は体の大きさに似て度量もまた大きい。人には誰しも防衛本能がある。自分にとって都合が悪いこと、損することや嫌なことには自然と予防線を張って自身が傷つかないようにする。他人から責められたくない、責任を取らされたくない。その反動で他人を過剰に反撃したり攻撃したりすることにもなる。人の非は鳴らすが、己の過ちは認めようとしない。己が損しなければよい、自身が傷つかないようにと自己防衛本能が知らず知らず内に向かって作動する。そのため人間成長のエネルギーが外ではなく内部に集まり、人間を小さく凝り固まらせてしまっている。

そして不安定で臆病な小さな人間をつくってしまう。小さな人間は弱いゆえに集団化し、派閥をつくり、仲間・同志と称しそれに安住し他を排除し、仲間だけに通用する論理と正統性を主張する。一人ひとりの仲間はあえて一匹のライオンになろうとはせず、弱いままの羊で満足し群れている。自己防衛も大切ではあるが、それは半分にして後の半分は外部へ放出するエネルギーに変えなければ人間の進化はない。

釈迦やキリストは自己防衛本能はゼロである。幕末維新の志士の中で西郷、吉田松陰、坂本龍馬は特に少なく勝海舟も少ない。どんなに自己防衛が十分であっても、人は病気、事故、自然災害、戦争などさまざまな要因で死ななければならない。第一、人間の生死は誰も予測できない。自己防衛本能ゼロの釈迦は八十歳まで生きた。

西郷は自己を防衛しようとする本能をできるだけ外に向けて、そのエネルギーで自身の器を大きく拡張している。簡単にいえば本能が望むことの反対を行うことである。たとえば困難なことに出合ったとき、本能はそれから逃げようとする。そうせず、あえて本能と逆のことをする。責任は取りたくない、過ちは認めたくない、非難されたくない。これらの自己防衛本能とは逆に「責任はしっかり取る。過ちは直ちに素直に認める。非難は受けて立つ」ことをあえてすることで、己の器を押し広げていくのである。

功績や手柄は自分のものとしたいが、それもほかの人に譲る。このほかにも自己愛や自己防衛に基づく、いろいろな本能がある。これらの欲求することの反対を己に課してみる。そうすると己の器が少しずつ大きくなってくる。西郷はこの器が常人よりはるかに大きいのである。西郷だから大きいのではない。誰でもこういった訓練をしたら器は大きくなる。常人(訓練していない人)の悩みごと、難問、解決できないことを西郷の器にどんどん放り込んでも、西郷は拒まないで快く引き受け解決してしまう。

幕末動乱の時代、激変する時代の波間にあって薩摩藩士を含め多くの討幕の志士がこの西郷の大度に信頼を寄せた。西郷の漢詩の一節に「一貫唯唯諾。従来鉄石肝」(一貫唯唯の諾、従来鉄石の肝)がある。私(西郷)は他人からのお願いごとや申し出に対しては「承知した」と一貫して引き受けることにしている。それは私が鉄と石でできた頑丈で強い肝(器)を持っているから自信をもって受けられる、という意味である。刀が鍛練を経て強く美しい日本刀になるように、人間の器もまた自己愛や自己防衛といった粗鉄を鍛錬に鍛練を重ねてはじめて強く大きな器となるから、人を魅了することができる。人間の本当の強さ、力や魅力といったものは、地位や名誉やお金にあるのではなく、こういったものにあるのだ。現代のわれわれに西郷は行動で示している。

PAGE TOP