西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p021-第二章_07

道義国家を目指した西郷吉之助

第二章  道義主義

7 誰でも持っている道義

「義を見てせざるは勇無きなり」(人の道として当然行うべきことと知りながら、これを実行しないのは、勇気がないというものである《論語(為政)》)と「測隠の心無きは人に非ざる也」(惻隠の心=人をいたわしく思う心。あわれみの気持ち《孟子(公孫丑上)》)は孔子と孟子の有名な言葉であり、日本人にはよく知られている。
家族や守らなければならないもの、あるいは自ら信じる正義のために我を捨てることがある。

「猛虎一声、吼え来る、狩人これを撃たんとする。あまた獣の危きより、飛び来きたりたる羊めが、狩人前にたたずんで、弾丸に当って身は倒れ、ほかの獣を救うてやる。羊は我を知らぬという。その意味をもって唐土(もろこし)に羊の下に我と書き義という文字ができたという」。これは広沢虎造の浪曲「固定忠治(唐丸駕籠破り)」の一節である。我身を犠牲にして多くの獣の危機を助けた羊の行為を、義という文字のいわれとして紹介しながら、義侠に生きる忠治の生き様にたとえたのであろう。義とは「羊は我を知らぬ」とあるように、自分自身の損得を計算に入れてはならないのである。

勧善懲悪(善事をすすめ、悪事をこらしめること)の思想はいつの時代でも庶民大衆に受け入れられ、多くの物語が生み出され大衆文化として定着している。現代でもテレビや映画に登場する正義の味方はヒーローである。悪をこらしめ弱きを助ける。
義に生きる。
人間は本能として生への執着と死への恐怖を持っている。人間の最大の欲望である生と引き換えに、生を断って死を選ぶことは非常に困難である。それだけに、人の道や大義のために見返りを求めず命を差し出す行為は心の琴線に触れ多くの人に感動を与える。
人の道は心の根底に本能のように持っているものである。しかしながら人間の多くはこの本能のようなものを自分で開拓し発露しようとせず、傍観者に甘んじている。多くの人は本当に道を行おうとはしない。道があることを知って実行せず、ただテレビや映画などのヒーローに自分を重ね合わせ疑似体験することで満足している。道は踏み行うべきものであり、実践しなければ意味がないと西郷は主張する。道義が厳然として人間に存在していることは頭の中ではわかっている。

ほとんどの人々は意識としてもっているか、それとも我欲に支配され消失しているか、である。西郷の時代においても、現在においてもこの状況は変わってはいない。道義を知っていても行わない人が大多数であり、その中で独り道義を行おうとすれば困難が伴うのは当然といえる。道義がごく一部の人しか行えないのではなく、多くの人の行動の判断基準に道義があり、かつそれが行動として表れやすい社会環境でなければ、人が人たるゆえんの道義という宝物は土中に埋もれたままなのである。

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