西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p020-第二章_06

道義国家を目指した西郷吉之助

第二章  道義主義

6 人類が進化するための思想

「時は移り所は変われど、人類の営みには何ら変わることはない」。これは、人類が地球外に進出して初めて恒星間飛行を達成した年を宇宙歴元年として宇宙歴八〇〇年ごろ、銀河系宇宙を舞台にした物語に出る言葉だ。この物語でも戦争と平和が繰り返される。戦争と平和は人類においては常のことであり、人間の宿命なのであろうか。千年、二千年前と比べて衣食住の生活環境は格段に良くなっていることは事実だ。しかし、進歩した生活環境を享受するには貨幣が必要であり、それがなければ千年、二千年前の生活とそう変わらなくなるのもまた事実なのである。宇宙歴八〇〇年であっても、同じ延長線上にある科学技術や生活の利便さのみの進歩であったら、人間の成長という面での進化はないであろう。人として成長しなければならない。極論すれば、このことが生きるための目的であり、使命でさえあると西郷は考えている。

前述したように道とは本能のように自然に備わっているのではない。人間の進化によって潜在意識の中には存在するが、成長し学ぶことで道を意識し、そして道を実践することで人として進化するのである。他の動物と違って本能以外の自由意志を持つ人間に対して、天が与えた進化の課題のようなものと言える。

西郷は「人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し」と述べ、また「道を行うには尊卑貴賤の差別無し」と言っている。人間として生まれたならば道があることを知って、誰でもこれを行わなければならない。道を行うことは誰にでもいつどこででも行うことができると西郷は主張している。「道は天地自然の道」とし「道は天地自然の物にして、人は之を行うもの」としている。人の道を行うことは、宇宙・大自然の法則に添うことであると西郷は考える。人間の思考と行動の根底に「人の道」という人であるための根本思想を置くべきであると思っている。それが人が人たるゆえんのものであると信じている。宗教やあらゆる思想の上位にあるべきであり、自由意志を持つ人間が宇宙・大自然の法則に従うことであると言ってよい。次に、学問をすることも本質は、道を行い自身を成長させることにあると西郷が述べている『遺訓』を紹介する。

「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始しせよ。己れに克つの極功は『毌レ意毌ナシ必毌ナシレ固毌ナシレ我』○論語と云へり。総そうじて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事こと大抵十に七八迄は能成し得れ共、残り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、始は能く己れを慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕るるなり。功立名顕るるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の気漸く長じ、其成し得たる事業を負み、苟も我が事を仕遂んとてまづき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己れに克ちて、睹ず聞かざる所に戒慎するもの也」

(【訳】道というものは、この天地のおのずからなる道理であるから、学問を究めるには敬天愛人を目的とし、自分の修養には己れに克つということをいつも心がけねばならない。己れに克つということの真の目標は論語にある「意なし、必なし、固なし、我なし」(当て推量をしない、無理押しをしない、固執しない、我を通さない)

ということだ。すべて人間は己れに克つことによって成功し、己れを愛する事によって失敗するものだ。よく昔からの歴史上の人物をみるがよい。事業をはじめる人がその事業の七、八割まではたいてよくできるが、残りの二、三割を終りまで成しとげる人の少いのは、はじめはよく己れをつつしんで事を慎重にするから成功もし、名も現れてくる。ところが、成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心がおこり、畏れつつしむという精神がゆるんで、おごりたかぶる気分が多くなり、そのなし得た仕事をたのんで何でもできるという過信のもとにまずい仕事をするようになり、ついに失敗するものである。

これらはすべて自分が招いた結果である。だから、常に自分にうち克って、人が見ていないときも聞いていないときも自分をつつしみ戒めることが大事なのだ)
人間は成長し学校へ行き人類の遺産である知識を学ぶ。学び成長すればするほど、人間は自我に目覚めて、その自我も同じく増大していく。それにつれ我欲すなわち自己の生命維持と快楽を目的とする行為が、少しずつ自分自身という人間を形成し始める。大人になり年齢を重ねれば重ねるほど、自己の生命維持と快楽の欲が強くなり増大していくものである。

いつの時代であれどこの国でも、十代の若者は命知らずである。生きた年数が少ないので生命を軽く考え、戦争やテロといった命を失う可能性が高い場合で活用されている。年寄りは残り少ない命であることが確実であるにもかかわらず命知らずにはなれない。人は年を取れば取るほど死を恐れ命を惜しむものである。

自己の生命維持と快楽が人の想念の九九・九九%を占めている。人間の集団、社会にあっては、自身の欲と他人の欲とのぶつかり合いせめぎ合いであると言えなくもない。人権が認められ、法という強制力のある網を一人ひとりの我欲にかぶせることによって、我欲が調整され法治国家として人間社会が保たれているのである。人類は自由意志と人権をもとに拡大発展してきた。自由意志と人権は個人の発展と活動の原動力でもあるが、争いや戦争が絶えないのも必然であると言える。我欲を一〇〇%、二〇〇%と拡大することに集中するのではなく、八〇%、六〇%に少し減らすことが人として成長するために必要であると西郷は主張している。

自己の生命維持と快楽のための我欲に想念の九九・九九%が占められているという人間にとってこれを少なくすることは困難である。しかし、人間は本来我欲を満たすためだけに存在しているのではなく、この我欲に打ち克ち、宇宙・大自然の法則の中にある人の道を探究し、己の生きる目的を知るためにこそ存在していると西郷は考えている。己の欲望を満たすことが生きる目的であるなら、本能で生きる他の動物と生きる形態の違いこそあれそう大差はないと言ってよい。

「講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己れに克つの極功は(意なし、必なし、固なし、我なし。)と云えり」と西郷は述べている。義務教育を受け、高校や大学に進学するのは、就職のためだけでなく、人間として成長しなくてはならないからである。何を目的として学び知識を得るのか。なぜ研究や開発といったところまで学問を探求していくのか、明確な目的を持つべきである。そうでなければ、知識を得ることによって我欲を増長させかねないのである。

勉学に励み知識を得るなど自己実現のために努力することは良いことであるが、その前に「敬天愛人」という人の道の究極の目的が存在していることを忘れてはならない。この究極の目的を根底に置いて人間は学び、研究し、開発することで多くの人々に貢献することにもなる、と西郷は考えている。自由意志と我欲を持つ人間がこの究極の目的を知り、実現に少しでも近づくためには、我欲に打ち克つという実践を日常に取り入れなければならない。我欲に克つには「自分のために」「自分の意志は」「自分のスタイルは」「自分のプライドは」など、「自分」を前面に押し出そうとする我欲にとらわれ過ぎないことが肝要であると西郷は説く。

人の道という宇宙大自然の法則にも通じる道義は、人として進化させる方法なのである。宇宙歴八〇〇年の未来であっても、人類が科学技術を中心とした発展にとどまり、人間としての進化がなければ「時は移り所は変われど人類の営みには何ら変わることはない」という我欲がせめぎ合う未来があるだけである。

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