西郷党BLOG

西郷魂 西郷吉之助 p051 第五章-11

一箇の大丈夫西郷吉之助

西郷の生き方に学ぶもの

西郷は『遺訓』の中で、人のあるべき生き方や強くたくましく大きい人間になるための方法を説いている。『遺訓』の中で全体に流れているのは「人間という偉大な存在」への愛情である。親が我が子の行く末を案じるように、強くたくましく成長し人生を有意義なものとし生あるを楽しめる人間であって欲しいという願いである。

芸術家が一つの作品を生み出すように、西郷は「西郷吉之助」という一個の人間を、その生涯五十年という時間をかけてつくりあげた。その作品は日本の歴史の大変革期にあって、適正な判断と行動により今日の日本の繁栄に大きく貢献したのである。西郷は、このことによって権力を求めたり名声を得たりしようとして行動したので
はない。日本の国難に己ができることをしたまでである。

西郷は「人間一人前の仕事というものは高がしれている」と勝海舟に語っていたように、政治とは特別な能力のある人が特別な仕事として行うものではないと考えた。市井の人であっても有能であれば一国の首相も務め得るのである。明治政府においても必ず大久保利通でなければならないとか、木戸でなければ、伊藤、山県、井上、大隈でなければならないということは全くない。ほかに有能な人は探せばいくらでもいる。西郷は実際これを試みようとした。

しかしながら、ほとんどの人はいったん権力や地位を得てしまうと「俺でなければできない。私以外に誰もいない」と、その味を知ったがために死ぬまで放したくなくなるのである。国民や国家のためになるか否かは別問題として、大久保も木戸も伊藤、山県、井上、大隈も死ぬまで、あるいは相当の高齢になっても放そうとはしなかった。人間は有名人に弱い。外見にだまされやすい。地位や名誉や権力を得て有名人になると、多くの人はその「有名」ということに飲まれてしまう。

豪邸に住んでいたり高級車を持っていたり、社長の椅子さらには総理大臣の椅子に座っていたりすると、その人がどんなに貧相な顔をしていても、立派な人でなくても、多くの人は外見や持ち物で判断してしまうのである。たとえ顔が貧相であろうと、総理の椅子に座っている人は総理大臣と思ってしまう。有名人も無名な人に対し一種の優越感を持ち、己を選ばれた人であるかのような錯覚に陥りやすい。

西郷は、人間には本来こういった地位や名誉や権力や富以上に人が生きて行くうえで価値をおくべきものがあると考える。それは「人の道」である。人としての生き方の根幹をなす道(人の行うべき正しい道=道義)を行い、この道を探究し己を人間として成長させる。これこそが人の生きる目的であり、人として生きる価値である。『遺訓』の中に表れている生き方は、現代でも有益であり、自信と安心を与えてくれるはずである。西郷が現代のわれわれに言いたいことは、「人間は偉大な存在であることをもっと自覚すべきであり、そして己を高めることにもっと価値を置くべきである」ということであろう。

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