第五章 四海同胞
5 人は天地自然と一体である
西郷は「人は天地自然と一体である」と述べている。人知では計り知れない宇宙、大自然の広大さとその神秘さ。地球は銀河宇宙の太陽系第三惑星でしかない。銀河は太陽と同じような恒星百億個から一千億個からなる集団であり、こられの集団が大宇宙には数十億個あると推定されている。
仮に宇宙を含め万物を創造した創造主が存在するとしたら、その創造主に似せてつくったという人間に何を望むであろうか。天地自然は一切の感情と欲を持たない。雨風や雪や台風そして大地震や津波も、災害を及ぼそうとして発生するのではなく、すべては自然現象として起こるのである。この大宇宙に存在するすべては生成発展の法則の中にあり、そこで起こるすべての現象は原因と結果の法則に支配されているという。
西郷はよく天意を推し量ろうとしていた。ちっぽけな人間である西郷が、万物の創造主である天の意思を汲み取ろうとするのである。それは子供が親の意に添おうとする気持ちであり、それを無限大にまで押し広げると、天の万物に対する親のような慈愛を知ることができる。天の慈愛は自然現象のごとく無私で平等である。
「親の心子知らず」の言葉があるように、子供は独りで大きくなったと思うものである。しかし、親は誰でも、我が子の行く末を案じ無私の愛情を注ぐ。天も同様であり、人類国家に対して滅亡せよと言うはずがない。国家を運営している大人は紛争や戦争を起こすのでなく、天の意を察し、それに応えようとしなければならない。そうでなければ人類国家も「親の心子知らず」の状態であり親不孝者である。
人類の科学技術がどれほど発展しようとも人間が一千年、二千年生きられるわけはない。宇宙・大自然の中にあっては人間の生死さえ自然現象であって、自然界における生物の生死となんら変わることはないのである。
しかしながら人間は人間の生死を特別なものとし、自分の存在を自然界から切り離し特別な存在と位置づけている。科学技術の発展と物質文明の急激な拡大はいつの間にか人間を生物界や自然界の王者のごとく振る舞わせ、謙虚さを失わせることになった。創造主の意思を知ろうとせず、また人間の悠久の生き方があることも知ろうとせず、ただ目前の生きることと我欲を満たすことに汲汲としている。創造主が自分の姿に似せてつくったという人間に、ただ生きることに汲汲とする生き方を与えるだろうか。創造する力と自由意志を与えた人間に、単に生きることを使命として与えるだろうか。それでは他の動物と変わりはなく、創造する力や自由意志も無用の物であるだけでなく、場合によっては人類自体や宇宙・大自然の調和をも崩す危険な物になりかねないといえる。宇宙・大自然の中にあって人間にしかできない使命や生き方があるはずである。それを謙虚に受け入れ人間もまた天地自然と一体であるという意識になるべきであろう。
前項「欲を少なくする」で紹介した西郷の逸話のように、人間は「一家親睦の方法」を国家間へ、そして人間と天地自然との調和へと及ぼして行くべきではないだろうか。人間は無限大の可能性を秘めた存在である。またそのようにつくられてもいる。人間は自身の偉大な可能性を引き出すことで、宇宙・大自然に隠されている未知なるものを発見・開発し創造主に貢献することになると言えないだろうか。この広大な宇宙の中にあって人間が天地自然と別なはずはない。天地自然と一体であることを認識して、人間の持つ我欲など子供のときならいざ知らず、大人になったら卒業しなければならないと意識すべきである。