第二章 信長と西郷
日本史の東西の「横綱」は信長と西郷
日本史に出てくる人物の中で「東の横綱」は織田信長であろう。日本史の二大変革といえば戦国時代の統一と明治維新である。百年続いた戦国時代を平定し、日本の中世から近世への扉を開けた信長の功績は大きく、信長を「束の横綱」とすることに多くの人は異存ないであろう。「豊臣秀吉や徳川家康では」という人も多いであろうが、秀吉も家康も信長あっての秀吉であり家康である。秀吉は完全な部下であり、家康は同盟者であるが部下のようなものであり、ともに信長によって鍛えられ成長した存在である。信長の業績は数多く、また多くの人が知っていることなので、ここでは省く。
信長は参謀をもたず、己独りの才覚のみで戦国乱世を切り従えた。神仏を恐れぬ理性と気塊。あらゆる物事に柔軟に対応できる思考。物事の本質をとらえ、全体像を見渡し、日標へ向かう鬼神の行動力。これらのことと信長の桶狭間、美濃攻略、姉川の戦、比叡山焼き討ちから本能寺までの事跡を見ると信長の力量は抜群であり、武田信玄や上杉謙信といったその他の戦国武将とは比べものにならない。
一方、西郷に関しては、歴史家や歴史に精通している人々の評価もかなり低い。明治維新は信長の戦国統一と並び、徳川幕府という封建時代(近世)から近代への扉を開けた日本史上最大の変革といってよい。その最大の功労者であった西郷はあまり評価されていない。
西郷はそのスタンスとして権力闘争によって権力を得ようとしなかった。政治とは、政治家が国民の代わりに国民のための業務を代行することである。極言すれば、「仕末に困るような人」が行うものであって、権謀術数を駆使し権力を奪取して行うものではないと考えていた。権力闘争を経ての政権は、歴代中国王朝の興亡を見ても分かるように、また島津家の斉彬と久光の抗争でも分かるように、結果は国民のためというより私欲のための権力になってしまう。そうであってはならない。またそうさせないための仕組みはないものかと常々考えていた。
しかし、現実の政治は西郷が考えているようなものではなかった。自分の信じる政治や政治体制を実現しようと思えば、毛沢東やスターリンのように権力闘争を繰り返すことになる。軍を支配し政敵を排除して自己の権力を強化し強大にしなければ、自分の願う政治など行えるものではない。これが日本に限らず世界史の常識である。西郷は明治政府で参議陸軍大将という官と軍のトップを兼ねたが、それはあくまで仕事上の権能・権限と考え権力と結びつけなかった。
この西郷の意識は、現代民主主義の職務と権限の考え方に近いと言える。日本の歴史上、源頼朝。足利尊氏・豊臣秀吉・徳川家康と比較して西郷がこの考え方を持っていたことは異色であり、また彼らに真似のできないことでもある。
源頼朝は鎌倉幕府を創設したといっても、自分と自分の一族のためである。幕府という形は父義朝や平清盛を反面教師として、朝廷の権力に巻き込まれないため、京から離れた鎌倉で武家政権を樹立し、自らの一族が支配できる体制をつくったにすぎない。足利尊氏は源氏の血筋として、鎌倉幕府を継承するものとして、時代の混乱に乗じ足利幕府をつくった。秀吉は信長の思想や政治手法をそばで見ていたであろうが、信長死後は権力闘争を制し、結局のところたどり着いたのは自分と自分の一族の繁栄のための政治であった。家康は信長と秀吉を反面教師とし、徳川家の繁栄と永続こそが日本の安定と平和につながると考えた。
その点、西郷は、日本を欧米列強に侵食させないという大目的のために政治的能力を失っている幕府を倒し、 一日も早く新しい体制の国家を建設すべく、私心を捨て全方位に目を配りながらその役目を果たした。
日本を東洋の独立国家として、しかも欧米列強に一日置かせて存続させたのである。
その点で西郷を「西の横綱」にしてもよいと思う。もっとも明治維新は西郷一人の力で実現したものではなく、幕末から百人を超える人々の功績によるものであり、チームプレイであったことは十分承知のうえである。
また一方では、「西南戦争で明治国家に反逆した賊軍の大将ではなかったか」と言う人もいるであろう。しかし、割りに合わない西南戦争を起こして敗れてしまうという馬鹿なことができるのも、私利私欲を求めず国家の将来を考えたことであり、これらのことも含めて評価されるべきである。西郷が足利尊氏のようであれば、そして本気で明治政府に勝とうと思えば、周到な準備をして環境を整え、勝つようにした上で勝ったであろう。しかし、そうはしなかった。