西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p026-第二章_12

道義国家を目指した西郷吉之助

第二章  道義主義

12 道義主義は普及しなければ育たない

道義主義は自由主義や主権在民の民主主義と違って、人間の思考や行動に定着しにくい。人間の体と精神の成長は遅く、十五年から二十年間親の養育のもとで生きていく。この間、食物を確保して明日に命を継ぐという生命維持の本能を出す必要はない。若者が命知らずになりやすいのは、食物を取らなければ明日は生きていけないという生命の現実感が薄いためであろう。成人して親の庇護を離れると否応なく、この現実に直面する。働くことでまず食物を確保しなければならなくなる。

子供は成人するまでの間、一般的にわがままで身勝手であり天衣無縫である。自己中心的で他人が存在することを知らず、自分の欲求を満たすために自由意志を縦横に使う。衣食住の心配をしないで済む成人までの長い時間こそが、人として成長していく期間であり、人間たるゆえんの揺籃期であると言ってよい。人類の進化の過程で得た様々な知識や経験を学び習得する時期である。

ここで頭脳を一つのPC(パーソナルコンピュータ)にたとえてみよう。他の動物のPCには本能というソフトが一〇〇%組み込まれている。しかし、人間のPCには本能というソフトは数パーセントしか組み込まれていない。人間が進化するためには、脳には必要最小限の本能というソフト以外は組み込まれていないほうがよいのである。残った大量のスペースに、人類が過去に得た知識や経験といった情報を受け入れ、それ以上に未来向かっても情報を収容できるように飛躍的に容量を増やしてきたと言える。自由主義と民主主義というソフトは、すでに内蔵され人間の本能ともいえる自由意志の機能に対応しやすくできている。受け入れやすく操作が簡単なソフトである。

これに対して道義主義は人間の思考や行動を修正したり規制したりするソフトとも言える。人間は成人すると親のもとから離れ、文字通り解き放たれた自由意志となって行動する。成人した自由意志を持つ人間の想念(思ったり、願ったり、考えたりすること)の九九・九九%は、自分自身や自身の家庭、仕事、友人、子供、財産などに向けられている。これを類別してみると想念の八五%は自分をどのように維持していくかという考えでいっぱいであり、あとの一四・九九%は自己快楽にとらわれているという。前述したジョージ・アダムスキーの『宇宙哲学』の一文である。彼によれば、人間が頭の中で思い考え、行動に移すときは九九・九九%自分のための行動であるということになる。そして、人のためとか、世のためとかいう行動は九九・九九%自分のためにやっている行動になってくる。誰でも自分自身の心の反応を公平に分析できたらほとんどこのようになるのではないだろうか。

十七世紀、イギリスの哲学者トマス・ホッブズは主著『リバイアサン』(一六五一年刊行)で「人間は生れつき平等ではあるが、自然状態においては『万人は万人に対して戦い』の状態にある」と述べている。人間は広げられる自身の自由は最大限広げようとする。それは他人も同様である。雨が降り出した時、雑踏の中で一人ひとりが傘を広げると傘がぶつかるように、それぞれの広げた自由意志がぶつかりせめぎ合うのである。その時、自分の傘を少しすぼめてぶつからないようにすることもできる。
人間にとって自己主張も利己主義も進化と生存のためには重要ではあるが、人ごみの中で傘を広げようとするときに自身が濡れない程度に傘をすぼめることも必要であろう。道義主義というソフトは人間として生きていくうえで、また生きる目的を知るうえでも役立ち必要なもの。このソフトは誤った生き方をしても修正することができ、そして人間として正しく生きる道を教示してくれる。いわば人間道の真理を伝える最も重要な核になるものであると言ってよい。

本来、人間のあるべき姿は道義主義の上に立った自由主義であり民主主義であらねばならない。そうであるのに、絶対的な王権に抗するためにヨーロッパで生まれた自由主義や民主主義が、現在の世界の正義の主義や思想のようになって広まっている。
そこには道義主義はない。産業革命以後、人類は欧米の自由主義と民主主義によって動かされてきたと言ってよい。資本主義と貨幣経済の波が地球上の人々の生活のすみずみにまで及んでいる。
自由主義は資本主義や貨幣経済と相まって、自己主張の突出や主義信条の押し付けを招き、格差社会や利己主義的な競争などマイナスの面を多く生んだ。人々の多くが主権を正しく行使しようとはせず、政治家に預けっぱなしにして愚民に甘んじ、主権在民の民主主義を形骸化させた。これらの延長線上に人類の発展があるとすれば、きわめて危険な状況にあると言える。

個人のエゴと国家のエゴが、自由主義と民主主義、資本主義・貨幣経済の中では増大するばかりである。したがって個人間の抗争は絶えることはなく肥大して、国家間の紛争や戦争にいつ発展しないとも限らない状況にある。人類の未来を考えるとき、本来人間に備わっている道義という概念を、国を問わず世界の多くの人々に普及すべきである。道義を意識し少しずつ日常の生活に取り入れるようにする。そうすることで道義が人の行動規範として定着していくのである。一朝一夕にはいかないが時間をかけてでも成さねばならないものである。

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