第二章 道義主義
11 自由主義の次は道義主義
自由意志を持つ人間は自由主義を手にしたとき、水を得た魚のようだった。しかしながら人類の歴史は権力者や支配者から自由を得ようとする庶民の戦いの連続でもあった。
広辞苑によれば、自由主義は「近代資本主義の成立とともに、十七、十八世紀に起こった思想および運動。封建制・専制政治に反対し、経済上では企業の自由を始め、すべての経済活動に対する国家の干渉を排し、政治上は政府の交替を含む自由な議会制度を主張。個人の思想、言論の自由、信教の自由を援護するものである。イギリス、フランス、アメリカにおける革命の原動力となった」とされている。
自由主義思想は主権在民の民主主義思想と相まって、個人の権利を非常に強くした。とはいっても享受したのは、欧米諸国の憲法などで認められた国民や市民である。イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダによる奴隷貿易は十六世紀以降、三百年間で五千万人に達したという、アメリカでも一九六〇年代までは白人による黒人差別はひどく公民権運動が起こっている。十九世紀に始まる帝国主義の時代、欧米の植民地政策はアジア諸国の住民に自由を認めるものではなかった。
人間の本能に近い自由主義思想はどうしても利己主義と結びつきやすい。自己の生命維持と快楽のための自由であり、他人のそれのためではない。自由主義思想の「自由」は王と庶民が平等に行使できるという普遍的なものではないのである。現代社会においても地域や経済状態、学歴、国家体制など様々な要因で行使できる自由はまったく異なってくる。不平等に与えられた自由の中で人々は生き、その中で生活しているとも言えるのである。
自由主義思想は、個人の自由を束縛すべきでないという大前提の上に成り立っている。すべてが自由という思いは、手足をおもいきり伸ばし晴ればれとした気持ちになり、未来が明るくなる。しかし、自由にはどうしても我欲がついてまわる。自分にとっての自由であり、他を自由にするための自由ではない。生命維持に直結する人間のエゴは強烈であり増大しやすい。他人と争うにしても、他人を差別するにしても、
自由主義はエゴにとって実にありがたい。現代でも自由主義民主主義国家は、自由主義のため、民主主義化のためと称し他国に侵攻する。民衆や国民の支持さえあれば安易に戦争をしてしまうのである。単に個人のエゴが集合し国家のエゴに発展しただけと言えなくもない。大国のエゴが国際社会でまかりとおっており、国際連合は常任理事国のエゴを中心に運営され、本来あるべき役割を果たしていないのが現状である。
自由意志を持つ人間にとって必要不可欠の自由主義が、エゴを増長させるだけのものであってはならない。人間の持つ無限大の可能性は自由主義のもとでなければ開花しない。しかしながら、自由主義だけでは人類の滅亡さえ招きかねない危険性を含んでいるのも事実である。
産業革命以降、科学技術は飛躍的に発達し、経済はめまぐるしく拡大発展、これによって人類文明は大きく進化したが、同時に個人や国家のエゴも増大した。人類は二度の世界大戦を起こし、その後も局地戦争や紛争は今日まで続いている。もはや自由主義や民主主義にはこれらをなくせないことは過去の歴史が物語っている。人間にとって自由主義思想は不可欠であるが、同様に、生きる目的や人として行うべき正しい道を示す道義主義も不可欠なものとしなければならない。それによってはじめて人間が、自由主義と道義主義というアクセルとブレーキを持ち人間としてのバランスが保たれる。人として生きる目的が必要である。
近代社会は自由主義思想と民主主義思想そして資本主義経済と貨幣経済をもとに発展してきた。自由主義は人間の本能に近いだけに受け入れやすく、人間の思考や行動原理の根幹にある善の思想として、絶対の地位を占めるようになった。それは、すべてが本能の支配下にある人間以外の動物なら良いが、自由意志と創造する力を持つ人間に対しては、自由主義という大義名分を利己主義に与えかねない。
人として生きるからこそ価値があるのである。空腹を満たし、美食を味わい、権力や金銭や地位や名誉を得ることが人生の目的であるとすれば、宇宙の視点では人間の欲も他の動物の本能も大差はないであろう。人間の存在意義や生きる目的を理解するうえでも、道義主義という人間に本来備わっている思想を自由主義とともに常用すべきである。