第二章 道義主義
10 人類普遍の道義の概念
人間が他の哺乳動物と大きく異なることは子育て期間が非常に長いことである。人間以外は一年以内で成体になるが、人間は最低でも十五年は要し、それまでは親の庇護がなければ生きていけない。他の哺乳動物は成体となると、親子や兄弟の見た目の違いはなくなり別々の固体として存在する。しかし人間のみは長い年月、親の愛情のもとに育てられ、兄弟や親族、友人らさまざまな人々のかかわりの中で成長していくのである。このため親子の情愛は強く終生続いていく。一方、人間の個体は千差万別であり、まったく異なった思考にもとづき生きていくことになる。
親は誰しもわが子の行く末を思い、最大の愛情を注いで子の幸せを願う。同様に、育ててくれた親への孝や恩といった情愛を子は自然と持つようになる。人間社会は極端に言えば、一人ひとりが誰かの親であり誰かの子であり、親子関係ですべて構成されていると言ってよい。国家の最小組織は親子関係を軸とした家族である。その集合状況に応じて地域や市町村や国家が成立している。
地球上に生存している人間のほとんどが二代、三代までの親子関係でたどることができる。誰かの親であり、誰かの子であり、孫であり、誰かの祖父母であるというように、親子という核を中心に人間社会は構成されている。人類の歴史を見ると、古代から王家、何々一族、何々家とあるように親から子へそして孫へと縦の親子のつながりが重視されてきた。日本においても天皇家や摂関家、平家、源家、北条家、足利家、織田家、豊臣家、徳川家と一家一族による政治支配体制であったと言える。これは日本ばかりでなくヨーロッパや中国も同様であり、世界各国の王家や王朝といった有力な一家一族による国家民族の興亡の歴史であった。
人間の子供はどうしても長い期間、親の養育を必要とする。そのため、親子の絆は強く情愛は深い。他人よりはわが子、孫や親族に重きを置いてしまうのである。人間は一家の繁栄のために、一族の防衛のためにと抗争や戦争を繰り返し、それが拡大して民族紛争や国家間戦争となった歴史がある。
自由主義、民主主義、資本主義、貨幣経済である二十一世紀においても、社会の最小組織は親子、家族である。王家や王朝といった専制支配はなくなっているが、いまだに親子を核とした社会組織はほとんど変わっていない。良し悪しは別として、これが人間社会であると言えばそれまでであるが、家族や親族以外の他人という横の関係に重きを置く時期が来ているのではないだろうか。
それは人類が新たな進化に入るためには避けて通れない課題であるように思える。本能的な親子の情愛よりも、人として潜在的に持っている道義という普遍の概念を一人ひとりが持つ社会をつくらなくてはならないだろう「天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」と西郷は述べている。天という万物の創造主の目をもってすれば、彼我の区別はなく、親子の区別さえないのである。本能的な親子の情愛は当然のことであり、他人に対して「我れを愛する心を以て人を愛する也」という意識を持てるまで本来人間は進化しなければならないのである。
『三国志演義』にある「桃園の誓い」は、他人である劉備と関羽と張飛が義兄弟の契りを結ぶ場面である。志を同じくした他人が目的のために運命を共にする。釈迦やイエス・キリストも、親子の関係よりは弟子や多くの名もなき庶民との関係を重視していたと言ってよい。これらは本来の人間のあり方を示しているのではないだろうか。