第二章 信長と西郷
天下布武と敬天愛人
信長の「天下布武」は有名であり、その目的意識も四文字に明確に刻まれている。百年続いた戦国乱世を武をもって平定する、そして新しい時代を築く、その前に立ちはだかるものは神仏さえも容赦しないという信長の強い意志が表れている。そのために比叡山を焼き討ちし、 一向徒を残滅した信長の鬼神のような気塊が「天下布武」にはある。
「敬天愛人」は西郷の思想を集約したものであると言われている。西郷自身も「敬天愛人」と自らも書き、人に与えている。天を敬し人を愛するということであるが、意味が漠然としていて明確に理解できない。『西郷南洲遺訓』(以下『遺訓』と略す)
十三項に「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ我を愛する心を以て人を愛する也」とある。この西郷の説明でも、道とは一体どういうものか、天とは何を指すのか、この場合の人とはどういう人なのか、具体的でないためわかりにくく、おそらくこうであろうと類推するしかない。
この言葉に対して西郷自身が詳しく説明しなかったため、多くの人はだいたいそういう意味だろうぐらいしか分からないままに、西郷の思想として四字熟語のように「敬天愛人」と表現している。
鹿児島空港には西郷関連のお土産がたくさんあり、敬天愛人の四文字は至るところで使用されている。果たして敬天とは何を意味し、愛人とはどういうことであろうか? 使っていた西郷自身もアバウトにしか理解していなかったのではないかと思うほど明瞭ではない。「天」という文字をキリスト教の神という文字に置き換えてみると、神は人も我も同一に愛し給ふゆえ我を愛する心を以て人を愛する也となる。この場合はキリスト教の万物愛の神と似たような意味であるとも言える。
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」と『遺訓』二十五項にある。二十一項では「敬天愛人」という言葉を使っている。「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ…」とある。西郷の「天」の思想とは万物を生成し、万物の運行をつかさどる大宇宙の大いなる善の意志とでも言ったらよいのか。
その創造主的な根源にある善の意志を「天」といったのであろうか。西郷は、勉強するのも、大学にいって知識を得るのも、何のためかと言えば、敬天愛人が目的であると言っている。
古今東西、歴史上の哲学者や思想家が、人間の生きる目的は何か、人間の存在価値とは何か、生とは何か、死とは何か、人間とは一体どういう生き物なのか、という全くとらえどころのないこの存在をとらえようと探求してきた。しかし、いまだ明確な答えは見い出していない。人間は平和を願うが、戦争も大好きである。人間の科学技術は宇宙に達し、人間の欲望もまた際限がない。死の恐怖が宗教を生み出し、多くの人々は日々の糧を求めて生きるのみで、あえて自分自身を探求しようとしない。果たして人間の生きる目的とはなんであろうか。生きていく目標はなんであろうか。
アフリカの貧困層で生まれた子供もアメリカの富裕層で生まれた子供も同じく人間の子供として誕生したのである。西郷が流されていた時代の奄美大島には家人(ヤンチュ)・ヒザという奴隷制度があった。家人は借金の方や米・籾(もみ)で買われ主家に年期奉公している者。ヒザは家人から生まれた子供のことで、主家の奴隷として生涯その家に属さなければならなかった。
西郷は奄美大島にいる間、この制度の廃止に努め、自身でも個人を説得して相当数のヒザを解放させていた。人間社会の矛盾や社会制度の非情さに心を痛めていた。西郷は奄美大島から去り、しばらくして沖永良部島に流されたため、直接にはヒザの解放に携わることはできなくなった。
しかし、大島にいるとき制度の廃止に賛同してくれた木場伝内が奄美大島の代官・土早 相良角兵衛を説得した。制度廃止に至ったということを木場伝内からの手紙で西郷は家 知り、沖永良部島の囲い牢の中で「ヒザ解放の御処置、まことに驚いた次第です。そこまでは行くまいと考えていましたが、案外なことでした…」と返事を出し喜んでいる。
西郷は、人間の生命の根本のところまで考えていた。宇宙の大いなる善の意志→天」としておく)は何の目的をもって生命を誕生させるのであろうか。柿の種を植えると柿の木となり柿の実がなるように、万物の中において人間にも天の意志が植えつけられているのではないだろうか。それは万人に平等に与えられた天の意志であり、人間は成長するにつれその意志を発露することが、人間が人間として成長することであり、そのことが天の意志にかなうことである、と西郷は考えたのではないだろうか。
その種子として人間に宿された天の意志を西郷は「敬天愛人」としたのではないだろうか。
西郷の哲学といってもよい「敬天愛人」は奄美大島での島民の親切、役人の圧政と苛酷な年貢の取り立て、ヒザといった諸々の社会制度、また沖永良部島での囲い牢での生活の中で、 一箇の人間である個人と天とを結ぶ一種のパスワードとして敬天愛人という言葉を生み出したのではないだろうか。織田信長の天下布武とは真逆の言葉といえる。
西郷の「敬天愛人」は資料が少なく、自身もこれについて詳細に説明しなかったため、専門家においても理解しがたいものとなっている。西郷が青年時代から聖賢の道を目指して行動した結果の「敬天愛人」である。