第二章 信長と西郷
死に方が似ている
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしの如くなり、 一度生を享け、滅せぬ者あるべきか」
この言葉に信長の死生観と生き様が凝縮されている。人の一生はたかだか五十年そこそこである。その五十年も下天では一日の長さだという。大宇宙の悠久の長さに比べたら、現代の人間八十年も刹那であり瞬く間である。人間五十年は朝起きて夜寝る肛 までの一日である。その一日に何を成すべきで、何を成すことができるか、と断じ行動した。活動する時間が限られているので、目的達成のためにはスピード、効率、効果を考えなければならない。
人生の俗事や雑事に振りまわされる暇などなかった。戦国乱世を平定し、平和を招聘するために、平定後の図面を俯嗽して、現在ただ今をどう戦っていくかのみ集中していた。その過程に本能寺の変があった。信長は森蘭丸から「光秀謀反」と告げられ、「是非も無し」と答えたという。弓で寄せて来る敵に矢を放ち、矢がつきると槍で突き伏せぎりぎりまで戦い、ころ合いを見て奥に下がり自ら火を放った。敵は光秀ということで、自分の死は確定した。しかし、向後のことを考えると光秀に首を渡してはならない。そして自ら生を閉じるまでは眼前に迫る敵を倒すという武将としての仕事をする。
「是非も無し」という言葉には信長の機械的な死生達観の響きがある。 一方、西郷は「生というものは天から授かるものであり、授かった生を天に返すのが死である。生(命)が自分にあるのか、天にあるかだけのことであるから、生死は一体であり区別するものではない」と言っている。西南戦争に敗れて郷里の鹿児島に帰り、城山に立て籠もった。当初二万人を越えた軍勢も、立て籠もったときは三百人余りになっていた。六万人の政府軍が城山を包囲し総攻撃を開始した。西郷のまわりには四、五十人の将兵が残っていた。前線に出て最後の戦いをしようと、集中砲火を浴びながら山を降りて行った。途中、銃弾が西郷の股と腹を貫いた。敵弾を受けた時点で武士として敵と戦うという面目は立った。西郷はがっくりと膝をつき、かたわらにいた別府晋介に向かって「晋どん、もうここらでよかろう」と言って自らの首を指し、晋介に首を打たせた。
四方から銃弾が飛ぶかう中、他の将兵も次々と斃れていった。別府晋介と辺見十郎太が西郷の前後に従って進んでいた。辺見が西郷に「ここらでどうでしよう(自刃してはごと聞いた。西郷は「まだまだ、本道に出てから立派に斃れよう」と答えた。さらに進んで、ますます飛びかう弾丸が激しさを増して来た。再び辺見が「ここらでどうでしょう」と西郷に迫ったが西郷は「まだまだ」と答えた。安易に自刃はしない。生と死の境をぎりぎりまで見極めたうえで、天から授かった生(命)を十分活用したと断じ、今、喜んで天に生を返すべきときと「晋どん、もうここらでよかろう」と発したのであろう。