第三章 聖賢への道
どうしたら聖賢になれるか
方法は簡単である。聖賢の行動や考えを真似すればよい。西郷は「誠意を以て聖賢の書を読み、其の処分させられたる心を身に体し、心に験する修行をすることである」と言っている。『論語』や『孟子』を聖賢に成るためのノウハウ書のように誠意をもって読み、孔子や孟子の行動・考えが自分にできるかどうか実験してみることである。
できないところがあれば、なぜ自分にできないのかを検証し、できるようになるよう練習訓練することが第一である。そして少しずつできるようになることである。しかし、現代においても、金持ちになりたい、ビジネス成功者になりたい、スポーツ選手・芸能人になって有名になりたいとは思っても、孔子や孟子のようになりたいとは誰も思わない。西郷の当時であっても、大久保も木戸も岩倉もそのほかの維新によって高位高官を得た志士も聖賢になろうとは思っていなかった。独り西郷のみが正直に聖賢の道を歩んでいた。
西郷としては明治政府の高官であればあるほど聖賢の道を行う人であってほしかった。必然的に強大な権限を持つことになるのであるから国民に対する影響力も大きくなる。こういう場合こそ尭・舜の政治を実際に行ってみるチャンスではないか。聖賢の道を志す者であればそう思うはずである。しかるに、成立まもない国家で山県有朋や井上馨らの汚職が発覚し、三井三菱の政商が生まれ利権を求めていたのである。これでは奄美大島の代官や役人と同じ所業ではないかと西郷は思ったであろう。西郷にしてみれば、山県も井上も「聖賢になる志無く、戦いに臨みて逃げるより猶卑怯な男」と思ったであろう。
洋の東西を問わずいつの時代であっても、こういうことはある。なんとかならないものかと思い、何か良い社会の仕組みはないものかといつも考える。人間とは自分のことしか考えない動物であると、諦めるしかないのかもしれない。しかし、「聖賢に成らんと欲する志」は十分命を懸けるに値する志である。この志の良さをもっと多くの人々が知るべきである。
幕末長州藩を動かしたのは、木戸や山県や井上でなく、何の役職もなく野山獄にいた罪人の吉田松陰である。「聖賢に成らんと欲する志」を持つ吉田松陰である。松陰の一番弟子の高杉晋作と二番弟子の久坂玄瑞が長州藩を動かした。
吉田松陰はベリーの胴喝外交を知り、このままでは日本は清国のように欧米列強に侵食されると思った。日本の危機を感じた松陰は、自分がアメリカに渡ってアメリカの進んだ科学技術や知識を学んで日本に持ち帰り、日本がその技術や知識を習得し大艦大砲などを造ればよいではないかと思った。そして実行するため下田沖に停泊していたアメリカの軍艦ポーハタン号に小船でたどり着き、アメリカまで連れて行ってもらおうと渡航を決行した。
日本は鎖国をしていて密航は国禁を破る重罪である。アメリカは幕府との関係がこのことで悪化することを慮り、松陰を連れて行くことを拒絶した。松陰は幕府に自首し江戸伝馬町の牢に入れられたが、しばらくして藩に戻され、国禁を破ったということで萩の野山獄に入牢させられた。松陰二十四歳のときである。
アメリカ映画の『インディベンデンスデイ』に出てくる異星人の巨大な宇宙船に吉田松陰が地球のために乗り込んで行くようなものである。幕末動乱もまだ始まっていないときである。日本と日本の将来を思いわが身を顧みず、よかれと思う行動をした。
まさしく西郷の言う「仕末に困る人」の見本である。
密航の罪で郷里萩の野山獄にいるときは、獄中でできる「よかれ」と思う行動をする。在獄中、松陰は富永有隣らを有能であるということで釈放を藩に働きかけ、十一人中六人を出獄させている。ここに己の損得を計算に入れていない。孔子や孟子であったらどうするであろうか、当然同じことをすると思ったであろう。しかし、それさえも考えることなく、よかれと思う心の命ずるままに行ったのであろう。
野山獄を出獄後、松下村塾を開いた。長州藩の幕末維新は松下村塾出身者がつくったといっても過言ではなく、明治国家の建設に果たした松陰の役割は非常に大きかった。その松陰は明治を見ることなく一八五九年(安政六年)に江戸伝馬町の獄舎内で処刑された。門地門閥もなく妻子も得ず、何の権力も持たない一介の青年吉田松陰が、親が我が子を思うように見返りを求めず日本のことを思い行動した結果である。
松陰は二十四歳のとき米国への渡航を失敗した後、入獄して以来二十九歳で死ぬまでの間、約一年半の間松下村塾を開いて少しばかりの自由を得た以外は、ほとんど獄中であった。松陰は獄中にいても、高杉、久坂ら塾生を教育指導、叱咤激励し自分の火のような志を伝えた。
松陰の考えや生き方は、現代の若者の日で見たら、何の興味もなくおもしろみもない生き方かもしれない。ビジネス成功者やIT長者の方が良いに決まっている。人間は三百年、三百年は生きられない。松陰が生きた当時でも、金持ちもいれば、高位高官の役人もいれば貴族も大名もいた。しかし、彼らは日本の歴史に名を残すほどではなかった。松陰は二十九歳で亡くなったが、日本史に永遠の墓碑銘を刻した。しかもなお、松陰の『講孟余話』『留魂録』などの著は、読む人に松陰の熱烈な思いと思想を伝え感奮させる。松陰は今でも多くの人に影響を与え永遠に生き続けていく。
人間一生一度の人生である。松陰の生き方はおもしろい。日の前の損得ではなく、長い日で見ればIT長者より価値のあるはるかにおもしろい生き方であると思う。