西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p031-第三章_08

仕末に困る人西郷吉之助

第三章 聖賢への道

聖賢への練習(3) 独り部屋にいるとき己を慎む

独りでいるとき、誰とも接しないときは、誰にも見られていないという安心から、さまざまな我欲が現れる場面である。たとえば、私が仕事から帰って自分の部屋に入リドアを開めたとする。いつもの部屋の中である。誰の目も気にするはずはない。密閉された空間である。
衣服を脱ぎ捨てすててこ姿になり、テレビとクーラーをつけ冷蔵庫を開け何か食べ物はないか探す。寝そべって片肘をつき、テレビのチャンネルをあちらこちら選局している。頭の中は空虚で日は何の意志もなくテレビの画面にある。時折鼻くそをほじったり、どこか痒いのかお尻をボリボリかいたりしている。誰もいない部屋の中では、壁で遮断され外からは全く見えないのだから、普段人前では見せないあわれな格好になったり、動物園の檻の中の熊のように動きまわったりするだろう。

しかし、四方の壁がガラス張りであり、しかも衆人監視の中に置かれているとしたら、独り部屋の中にいるような行動はできない。ガラスの部屋であれば他人に見られていることを意識し、行儀がよくなり人によく見せようとする行動をとるだろう。
西郷は慎独の訓練を重要視している。独りとは、部屋の中にいるときばかりではなく、他人と接していないとき、独りの時間のとき、何もしないでいるときなど他人の目から離れたところにいるときのことである。このときこそ自分を慎まなければならない。なぜなら、絶対に他人の目が届かないという事実と安心感で、頭の中には雑念や妄想や我欲が自由気ままに湧き上がり、立ち居振る舞いは、独りいる部屋のようになってしまうからだ。それでは人が見ている前と、そうでないときとの行動は違うということである。それは自分の都合や損得で人や物事に違った対応をしていることになる。

人が見ていようと、見ていまいと同じ行動ができるようでなくてはならない。そのためには誰にも見られてないと思うのではなく、あえてガラス張りの部屋の中にいると思い、自分をコントロールしなければならない。この訓練をすることが大切である。
部屋の中ばかりでなく、独りでいるときは独りを慎むという練習を何度も繰り返し、独りでいるときも、そうでないときも同じようであらねばならない。この訓練を徹底すると、たとえ1000万人の衆目監視の中であっても、誰もいない部屋の中で独りいるような行動ができるようになる。他人の目など一切気にしなくて済むほどの精神がつくられるであろう。
西郷はこの訓練を徹底して自らに課した。沖永良部島で囲い牢の中にいたとき、人が見ていようと見ていまいと慎独を守って、そこをあたかも自己修練の道場であるかのようにしていた。その西郷の姿に土持政照が感心し尊敬したのである。

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