西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p032-第三章_09

仕末に困る人西郷吉之助

第三章 聖賢への道

人としての道を行うのに、できる人できない人も、上手な人下手な人もいない

「道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる期難の地に立つとも、事の成否身の死生雄に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来来ざる人有るより、自然心を動かす人も有れ共、人は道を行ふものゆえ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に馳鬱ら道を行ひ道を楽み、若し類難に逢うて之を嚇がんとならば、耐4道を行ひ道を楽む可し。予壮年より類難と云ふ期難に脇りしゆえヽ今はどんな事に出会ふ共、動揺は致すまじ、夫れだけは仕し舘せ也」(遺訓二十九項)

(道を行う者はどうしても困難な苦しいことに遭うものだから、どんな難しい場面に立っても、そのことが成功するか失敗するかということや、自分が生きるか死ぬかというようなことに少しもこだわってはならない。事をなすには上手下手があり、物によってはよくできる人やよくできない人もあるので、自然と道を行うということに疑いをもって動揺する人もあろうが、人は道を行わなければならぬものだから、道を踏むという点では上手下手もなく、できない人もいない。したがって、一生懸命道を行い道を楽しみ、もし困難なことにあってこれを乗り切ろうと思うならば、いよいよ道を行い道を楽しむような境地にならなければならぬ。自分は若い時代から困難という困難に遭ってきたので今はどんなことに出会っても心が動揺するようなことはないだろう。それだけは実に幸せだ)
この言葉は西郷の心の修練の履歴といえる。青年時代の『近思録』との出会いと聖賢の道への志。藩主斉彬に見出されたこと、そして月照との入水自殺。奄美遠島。討幕と明治維新。これらのさまざまな出来事の中で、いかに西郷が愚直なまでに道を行っていたかが文字通りわかる言葉である。
西郷を慕う荘内藩の若者に語った言葉であろうが、西郷が言いたいのは、日先の利益で自分の進むべき進路を決定するのではなく、人間が人として歩まなければならない人の道を行うことを志すことがなにより大切である。頭の良しあし上手下手、まったく問題ではない。いつから始めても良いのである。
自分もこの道を若いときから一筋に生きてきたが、決して損な道ではなかった。一生一度の人生を懸けるに値する道である。それはこの西郷が保証すると言っている。

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