第六章 這韓使節論
西郷の外交手法
西郷の外交手法を多くの人が見誤っている。
西郷が板垣退助あての書簡で「自分が使節として朝鮮を訪れれば必ず殺されるだろうから、それを回実として開戦に踏み切ればよい」と述べている。これが決定的な根拠となり、西郷は死を賭して朝鮮に行く、行ったら殺され開戦となるゆえに中止することが正しいという論理になり、「西郷征韓論」が定着する。この文面を文字通り受け取るとそうなる。「征韓」を主張する若い板垣退助の気勢をそぐには、西郷が板垣以上に過激になって極端な発言をすることである。そうすることで板垣の無謀な征韓論を抑えようとしたのである。これは西郷がよく使う手法である。前戦の戦闘隊長的板垣であれば相手をム肛藤 怒らして戦端を開かぬともかぎらないが、百戦錬磨の西郷である。開国の得失を諄々と説いて、今すぐではなくとも時期を見ての開国と日本との友交を約束したであろう。
江戸城無血開城のときもそうである。京都で官軍が江戸に向かって進発するときは、将兵に向かって「慶喜の首とるべし」と過激なことを言っている。圧倒的な兵力を誇る幕府と開戦するとき、兵の志気を鼓舞するためである。しかし、結果はどの官軍幹部が予想していたよりも寛大な処分であった。西郷は当初は慶喜切腹という厳しい処分を主張した。それは、開戦の当初であるにもかかわらず朝廷内に出ていた徳川氏に対する温情論を抑え、革命軍の厳しさを示さねばならなかったからである。結果は海舟との会談で最も寛大な処分とした。
第一次長州征伐後の長州藩処分のときも、大久保との書簡のやりとりでは厳しい長州処分を主張している。それは、西郷と大久保との書簡でのやりとりは公文書的意味あいもあり、必ず久光が目を通すという前提のもとで書いている。長州を憎みきっている久光の手前、厳しい表現にしなければならなかったのである。実際は征長軍総督徳川慶勝に長州処分を願い出て、単身敵地に乗り込み長州藩幹部と会い寛大な処分を行っている。
西郷のもう一つの外交上の手法は、相手情報を徹底して収集することである。それにより情勢の流れや、関係者のそれぞれの立場、思惑、利害得失などを分析し、自身の腹案を固めた後に行動に移している。情報収集も伝聞情報ではなく、自分が直接関係者に会って自分の目で見て判断をしている。これは西郷が斉彬の庭方役(秘書官)として、将軍継嗣運動で斉彬の命によりさまざまな立場の人と交渉し、情報を収集分析して報告し、そして指示を受けなければならなかったため、情報の正確さを最重要視したからである。
西郷は「情報は命」というほどに情報収集の大切さを知っている。征韓論が湧き上がつたときもヽ池上四郎を中国に、別府晋介を朝鮮に派遣し情報の収集にあたらせている。西郷は問題を解決するとき、当事者間のみならず周辺情報を収集する。高台に登り流れる川の行く末を見極めるように、五年後十年後の結果を考えて手を打つ。そして「敬天愛人」の哲学と道義に基づき判断決断するのである。西郷は直情的で単細胞であるかのように描かれることも多いが、それはつくられた西郷像である。大胆さと細心さを併せ持ち、人情の機微に通じ、大局をとらえ決断が早い。硬軟を織り交ぜどういう役でも演じきれる名役者である。そうだからこそ明君斉彬の名代としての役を演じ、また討幕の千両役者を演じきれたのである。しかし、薩長土肥の権力闘争が渦巻く明治政権内では自分の役割はないと思い、愚者を演じた。
朝鮮問題に関して西郷は解決できる自信があった。それが政争の具とされたので、あきれかえって「このような私の政権にとどまるべきでない」と、さっさと鹿児島に帰ったのである。